瑞泉寺へのアプローチ
鎌倉の奥座敷と言われる二階堂の谷戸の奥深く、夢窓疎石が開いた禅道場、瑞泉寺があります。いまも緑深い静寂に囲まれ訪れる人を迎えて遅れます。梅の時期は賑わいますが、それ以外の時期にもそれぞれの魅力があり、禅寺らしい雰囲気は変わりません。
- 宗派 臨済宗円覚寺派
- 山号 錦屏山
- 本尊 釈迦牟尼仏
- 開山 夢窓疎石
- 開基 二階堂道蘊
- 創建 嘉暦2(1327)年
- 中興開基 足利基氏
- 関東十刹(一位とも二位とも)
所在地 〒248-0002 神奈川県鎌倉市二階堂710
電話 0467-22-1191
ホームページ 瑞泉寺
拝観料 大人200円 小中学生100円
交通 鎌倉駅から京急バス。[鎌20・4番]大塔宮行き 大塔宮下車 徒歩10分
大塔の宮(鎌倉宮)バス停を降り、鎌倉宮の右手の道を進みます。まもなく左手にテニスコートと永福寺跡の公園に出ます。公園脇を進むと小さな赤いポストがあり、その脇の「通玄橋」を渡ってさらに谷戸の奥に入っていきます。
静かな谷戸の住宅地を入っていくと、次の写真のような三叉路につきます。真ん中の細い道は車の進入路となっており、歩行者は右の道を上がっていきます。左の道はなおも谷戸の奥の住宅地に進む道です。
総門をくぐって進むと、右手の住宅地に入る手前に天園コースハイキングの登り口があります。今日はまっすぐ行って、駐車場の脇に受付があるので拝観料を納めて境内に入ります。
受付を過ぎると左手にはもう梅林があります。梅の季節なら、ゆっくりと中を歩いていきましょう。
まもなく「夢窓国師古道場」とある小さな石碑がめにつきます。ここは通常の寺院ではなく、夢窓疎石が開いた禅宗の座禅道場でした。現在でも谷戸の奥にあって、鎌倉でも最も幽玄な雰囲気のあるお寺です。
ここから石段を登っていきます。まわりはもう鬱蒼とした森で、すり減った石段が修行僧が行き交ったことを偲ばせます。
左が本来の石段ですが、急であり、石もすり減って危険なので、右に新しく石段をつくったようです。ゆっくり左の石段を登ることもできますが、山善のためには右の新しい石段を登りましょう。
ようやく三門が見えてきました。あと一息です。
境内の案内
三門
扁額には寺号のもとになった「瑞泉蘭若」の額が見られます。また右手に時期によって俳句が掛けられています。これは俳人でもある住職が選び、掛け替えているようです。
三門の右手によく見ると小さな庚申塔が立っています。これは享保八年(1723)の銘のあるもので、青面金剛像と邪鬼、三猿がしっかりと彫り出されており、見事です。 → タグ 庚申塔
前庭
仏殿
正面に本尊の釈迦牟尼仏、右手に開山夢窓疎石像、左手に千手観音像(徳川光圀の寄進。鎌倉市指定文化財)が安置されています。夢窓国師像は南北朝時代の頂相彫刻の傑作とされています。お堂の戸はいつもわずかですがあいているので拝観できます。
右手の夢窓疎石像は厨子の中に入っていて良く見えないかもしれませんが、目をこらしてぜひ拝観してください。千手観音は水戸光圀が寄贈したもので、鎌倉観音第6番札所になっています。仏殿の建物は新しいもので、昭和10年に再建されたものです。
仏殿前の黄梅
説明板には鎌倉市天然記念物黄梅、江戸時代から知られた梅の品種で、花弁はやや退化して帯黄色、この木により牧野富太郎博士はオウバイの学名を付けられた とあります。
夢想疎石の庭園
仏殿の左側の裏手にあるこの庭園は瑞泉寺が衰微した一時期、土に埋もれていましたが、昭和44~45年に発掘調査され、古図面にもとづいて復元されました。これによって夢窓疎石が作ったとされる南北朝期の禅宗様式の池泉庭園がよみがえりました。背後の山を大きく切り崩し、崖面(切岸)に坐禅窟をうがち、池には橋を架け、脇に滝口を作り、そこから岩盤に作られた道をたどり、徧界一覧亭に上ることができます。現在は崩壊の危険があると言うことで、残念ながら通行できません。
- 夢窓疎石と禅宗庭園についての参考書
どこも地蔵
地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像はもと扇ヶ谷の智岸寺(今は無い)の地蔵堂にあったもので「どこも地蔵」(あるいは「どこもく地蔵」)といわれています。それにはこんな話があります。扇ヶ谷の地蔵堂には一人の堂守がいましたが、誰もお参りに来ないので困窮し、ある夜、地蔵様をほったらかして逃げ出しました。しかし夢に現れた地蔵様が、「どこも、どこも」と言うのです。堂守が八幡宮寺の供僧に訪ねたところ、それは「この世はいつでもどこでも苦しい。楽を求めて逃げ出してはいけない」と言うことだと教えられ、我に返った堂守は急いで地蔵堂に戻り、それからは大切に地蔵様をお守りしたそうです。大正5年に瑞泉寺に移されました。
お間違えないように。ドコモ地蔵ですよ。楽天地蔵、AU地蔵ではありません。
境内のそちこち
コラム むじな塚の話
鐘楼の奥に塚があって、石仏の中に小さなムジナ(あなぐま)石像があります。昔、隣の永安寺(今はない)と瑞泉寺の寺男のじいさん同志がいました。そのうち永安寺に毎晩のように瑞泉寺のじいさんが訪ねてきて飲み食いしていくようになりました。不審に思っているとある夜、寝入ったその姿を見るとムジナだったのです。驚いて撃ち殺してしまいましたが、後になって不憫に思い、瑞泉寺の境内にてあつく葬ってあげたそうです。
瑞泉寺と文学
瑞泉寺は最盛期には鎌倉五山の禅僧が集まり、裏山の偏界一覧亭に登って、漢詩の試作を競っていました。その伝統があるのか、江戸時代から文人墨客が集まり、詩文を作ったり、文学談義をしていたそうです。昭和になってからも歴代の住職が歌人や俳人と交わりが多かったので、境内にはそれらの人々を偲ぶ、いくつもの歌碑や句碑がたっています。そのいくつかを紹介しましょう。
季節の花
梅の頃
1月には、帰りの道にも早咲きの梅が山裾に花開いていました。
梅雨の頃
2013年6月13日 撮す
秋 十月
2014年10月24日 撮す
紅葉の頃 十二月
2023年12月20日 午後 撮す
瑞泉寺の歴史
夢想疎石
- 夢窓疎石 1275(建治元)年、伊勢に生まれ甲斐で育ち、18歳で東大寺戒壇院で受戒し、京都の建仁寺などで禅をまなびました。1295(永仁3)年に鎌倉に移り、はじめ東勝寺、次いで建長寺・円覚寺に学びました。その後、鎌倉・京都を往来し、円覚寺・浄智寺にも住しました。1305(嘉元3)年、高峰顕日(仏国禅師)から印可(悟りを開いた証明)を受け、円覚寺開祖の無学祖元(仏光国師)の法灯を嗣ぎ、円覚寺に住職として入りました。しかし、世俗を避けて鎌倉を離れ、美濃や土佐などで隠遁の生活を送りながら、禅の修行を続けました。次第にその名声が高まり、後醍醐天皇に促されて京都の南禅寺に入りました。鎌倉幕府の執権北条高時も夢窓疎石の名声を聞き及び、強く鎌倉に来ることを要請しました。
- 瑞泉院の創建 1327(嘉暦2)年、代々鎌倉幕府の政所執事などを務めた有力な御家人の二階堂道蘊(貞藤)が、すでに禅僧として高名であった53歳の夢窓疎石のために二階堂の紅葉谷に一寺を建て瑞泉院としました。夢窓疎石が閑かに禅の修業をする道場として作られたのです。創建の翌年、早くも裏山の山頂の富士山の眺望できるところに徧界一覧亭が建てられ、鎌倉の五山の禅僧が集まってさかんに詩を詠んでいます。また文献では確かめられませんがそのころ夢窓疎石の手によって庭園も造られたと思われます。
- 後醍醐天皇と夢窓疎石 1333(元弘3)年に鎌倉幕府は滅亡し建武中興が始まると、夢窓疎石は後醍醐天皇の帰依を受けていたので再び京都に移り、西芳寺(苔寺として有名)・臨川寺を創建し、多くの禅僧を育て、国師号を許されました。夢窓疎石の教えを受けた夢窓派は室町時代の禅宗の主流派となり、瑞泉寺はその鎌倉での拠点として栄えました。
- 足利氏と夢窓疎石 後醍醐天皇に協力して鎌倉幕府を倒したものの、後に叛旗を翻し、室町幕府を開いた足利尊氏と弟直義も夢窓疎石に深く帰依していました。尊氏と直義の兄弟は、後に観応の擾乱で争うことになりましたが、夢窓は両者を仲裁しています。その足利直義の質問に答えて禅の極意を易しく説いた『夢中問答集』が残っており、禅宗の解説書として今も読まれています。後醍醐天皇が亡くなってからは、足利尊氏に南北朝の争いで亡くなった人々を供養するため全国に安国寺・利生塔を建てることを勧め、京都には天龍寺を新たに建立しています。1351(観応2)年、臨川寺で亡くなりました。76歳でした。
- 夢想疎石の法統と造園 夢窓疎石の法統には、春屋妙葩・絶海中津・義堂周信など南北朝時代の著名な禅僧が多く輩出しており、彼らはいずれも詩文に優れ、五山文学といわれる文学史上重要な位置を占めています。また夢窓疎石は禅宗様式の造園に優れ、瑞泉寺だけでなく、京都の西芳寺・天龍寺、美濃多治見の永保寺、甲斐塩山のの恵林寺などが特に知られています。夢窓疎石が手がけた数多い庭園の中でも、この瑞泉寺庭園はその原点となったもので、日本の庭園史の中で貴重な位置を占めています。
鎌倉公方と瑞泉寺
- 足利基氏 足利尊氏は室町に幕府を開くと、鎌倉を統治するため鎌倉公方を置き、次男の足利基氏を任命しました。足利基氏も夢窓疎石に帰依し、死後に瑞泉寺に葬られました。これによって鎌倉公方の菩提寺となり、このころ瑞泉寺と称するようになったようです。その後、基氏の夫人や子の氏満などもここに葬られ、現在も庫裡の東側にその墓所があります(一般の人が立ち入りはできません)。
- 永享の乱 1438(永享10)年、第4代鎌倉公方足利持氏が室町幕府将軍義持・義教と対立し、永享の乱が起きました。翌年、戦いに敗れた足利持氏は、瑞泉寺の右手の永安寺で自害し、永安寺も焼け落ちました。そのとき瑞泉寺も罹災したようですが、持氏の子の足利成氏が鎌倉公方に復帰し、瑞泉寺を復興させますした。しかし、成氏も部下の関東管領上杉氏と対立し、鎌倉を追われ、古河に移ります(古河公方)。それ以降、室町幕府は関東を押さえることができなくなり、戦乱の時代へと向かっていきます。足利持氏の墓塔と言われる巨大な宝塔が大町の別願寺に残っています。
江戸時代の瑞泉寺
- 江戸時代 室町時代中期に鎌倉は関東の政治の中心から外れることになり、公方の菩提寺であった瑞泉寺も衰微し、たくさんあった塔頭の数も減ってしまいました。江戸時代には瑞泉寺の住持は円覚寺黄梅院の兼帯(住持をかねること)とされるようになり、円覚寺を本山とする臨済宗円覚寺派に属しました。
- 『新編鎌倉志』 江戸時代の初め、徳川光圀は家臣を鎌倉に派遣して、寺社の調査・報告に当たらせ、その成果を『新編鎌倉志』にまとめました。この本は江戸時代の鎌倉を伝える書物として貴重で、とくにその図面は大いに参考になります。その中に瑞泉寺図もあり、それによると当時の建物は総門を入ったあたりにあり、池の右側は方丈書院跡となっています。しかし、池がしっかりと描かれており、その後埋まってしまいましたが、戦後の発掘調査はこの図を基に池を復元したのです。
- 徳川光圀と瑞泉寺 なお徳川光圀は自分でも鎌倉を訪れ、そのときしばらく瑞泉寺に滞在しています。仏殿の本尊の左手にある千手観音は光圀が寄進したものです。なお、徳川光圀といえば、助さん・格さんをひきつれて諸国漫遊を行い、悪人を懲らしめた、という話が有名ですが、実はそれは全くのフィクションです。ただ、鎌倉に来たことだけは確かです。