九品寺は、材木座にある浄土宗のお寺で、鎌倉の歴史では重要な舞台となったところです。また4月末には境内に見事なナニワノイバラが咲く、花の寺でもありますが、鎌倉の中心部からは離れていることもあり、訪ねる人も少ないお寺です。
九品寺
- 宗派 浄土宗(もと光明寺末寺)
- 山号 内裏山 院号 霊嶽院
- 開山 風航順西 開基 新田義貞
- 創建 1336(建武3)年
- 本尊 阿弥陀三尊像(市指定文化財)
九品寺への行き方
鎌倉駅東口バスロータリー、六番又は7番、京急バスの「九品寺循環」又は小坪行きなどに乗り、約10分でつきます。
バス停は九品寺の近くですから、お寺の屋根がすぐに分かります。
この道は、まっすぐ行けば光明寺から小坪の方に抜ける、三浦道といわれる古い幹線道路でした。
右手の九品寺の入り口に、お地蔵様が迎えてくれますので、右手に入ると山門が見えます。
鎌倉から歩いても20分ほどですので、この三浦道をのんびりと歩いてくるのも良いですね。

新田義貞の創建
元弘3年(1333)5月、新田義貞が鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府執権の北条氏他の軍と材木座一帯で称としました。そのとき、当地に陣を構えて戦った新田義貞が、乱後の建武3(1336)年に、敵方であった北条氏一門の戦死者の霊を慰めるため建立しのがこの九品寺です。山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の扁額は、新田義貞の筆になるものを写したとされています。ただし、現在の建物は関東大震災で全壊した後に再建されたものです。

新田義貞の原書という、山門と本堂の扁額。


確かにこのあたりは、鎌倉幕府滅亡の際に、守る北条方と攻める新田方の死闘が行われたところでした。このあたりから、材木座海岸にかけての一帯は、現在もその時戦死した兵士の骨が出て来ることがあると言います。
九品寺は戦場の死者を弔う、鎮魂の寺だったのです。
九品寺の本堂

九品とは
九品とは 往生のありさまには、極楽往生を願う人々の生前の行いによって、上品・中品・下品のちがいがあり、それぞれに上生・中生・下生がくみあわさって、併せて九つの階(ランク)があるとされています。あわせて九品浄土といい、九品はその略です。つまり九つの階のすべての浄土を意味しています。
阿弥陀如来の名を無心に唱えることで、極楽への往生を遂げようと願う浄土宗では、九品寺という寺号のお寺は各地にあります。よく知られているのが東京の世田谷にある九品寺ですね。
境内と文化財


本堂前に立派な天水受けがあります。
正面にあるのが新田氏の家紋で、「中黒」または「大中黒」といい、太い一本の線を横に引いたすっきりしたデザインです。
足利氏は「丸に二つ引き両」ですが、もともと新田と足利は同族で、新田の方が本流であったので横一本の家紋なのです。
ところで三浦氏の家紋は、その名の通り丸に三本の横線を引く「三つ引き両」です。
本堂の右手に、銅のパネルをはった石碑があります。
銅のパネルには法然上人が描かれ、下の文字は宗祖法然上人讃迎 浄土宗開宗八百年記念と読めます。続けて
浄土宗 宗歌
月影のいたらぬ里は
なけれども
ながむる人の
こころにぞすむ
とあります。

石造薬師如来像
1296(永仁4)年銘の石造薬師如来坐像は県指定文化財で、めずらしく石で彫り上げており、表情、お姿がバランスが取れていてすばらしいものです。現在、鎌倉国宝館に収蔵されています。(右図)
永仁4年(1296)は鎌倉時代末期。元寇の後、幕府の衰退が現れる頃ですが、鎌倉仏教はむしろ隆盛に向かっていた時代でした。

石像一体の六地蔵

山門を入った左手に、めずらしい、一つの石に六地蔵を刻んだ石仏が置かれています。
六地蔵が一体ずつ並んでいるのはよく見かけますが、このように一つの石に六体を並べて彫るのは珍しいのではないでしょうか。
2018/4/27

ナニワノイバラ







ナニワノイバラは、江戸時代に中国からもたらされた植物で、大阪の上人が栽培したことでこの名があるそうです。春から初夏にかけてたくさんの白い花をつける蔓性のばらの一種です。現在は庭にもあちこちで見かけますが、白い花弁がすぐに散ってしまうので、お掃除が大変。

その他の花


