永福寺跡

2018/1/7

源頼朝創建の大寺院

 1189年、源頼朝は奥州平泉の藤原泰衡や源義経などを討ち、東国全域を統一しました。その時の戦没者の鎮魂のために、1192年にこの地に造営を開始したのが永福寺です。平泉の中尊寺大長寿院と毛越寺を模し、それ以上の規模の将軍の御願寺として建設されました。永福寺は、頼朝の創建した鶴岡八幡宮寺、勝長寿院とともに三大寺院と言われ、鎌倉時代には大いに栄えていました。
 しかし源氏直系が絶えたこともあってか、永福寺は次第に衰微し、現在は建物はまったく残っていない廃寺となっています。長く畑として放置され、戦後は宅地化の危機もありましたが、現在は鎌倉市が管理する史跡公園となっています。

  • 交通 鎌倉駅東口バス乗り場から京急バス 鎌倉宮行き 終点下車。鎌倉宮の右手の道を進み、約10分。
  • 入園料 なし
  • 駐車場 なし
  • 売店その他 なし

永福寺跡の現在

2019/1/19

二階堂の地名のおこり

鎌倉歴史文化交流館パネル

 永福寺は中央のお堂が釈迦如来を安置する釈迦堂、両隣の右(北)に薬師如来を祀る薬師堂、左(南)に阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂の三つの建物が並んでいました。これは法華経の説く三世(過去・現在・未来)を救済する三如来であり、この寺が奥州戦役の戦死者の鎮魂のために建てられたことを物語っています。
 この位置は鎌倉中心部からは離れていますが、幕府の東北に当たっており、将軍御所の鬼門に当たるところから、鎌倉を守るという意味もありました。また、永福寺の前を通る道は鎌倉時代の重要な道で、奥州に抜けるために獅子舞の谷を越えて行く道に面していました。
 中央の釈迦堂が二階堂といわれる最も大きな建物でした。二階堂と言っても、外から見ると二階建てのように見えますが、それは屋根が二層になっているからで、実際には二階はありません。当時は大変珍しい二階建ての大建築に見えたところから二階堂とも言われるようになり、それがこのあたりの地名となり、永福寺が廃寺になってからも地名だけが残ったのでした。
 三つのお堂は廊下でつながっており、南北の両端から翼廊を張り出させ、お堂の前の池に釣殿が乗り出すという、京都の貴族邸宅である寝殿造りの形式を取っています。これは宇治の平等院、奥州平泉の毛越寺に共通しています。
 池は、北方の山から水を流し入れ、南北約200m、東西は最大70m、真ん中のくびれが40mで橋を架けていました。瓢箪型の池の南側には中島が築かれた。また池の周辺には庭石が置かれていました。その一つが畠山石といわれ、今も残っています。

永福寺の復元

永福寺復元図 現地解説板より

 永福寺跡は長く放置されていましたが、ようやく1981(昭和56)年から発掘調査が始まり、その結果、礎石や池の跡が発見され、現在は鎌倉市が一帯を買い上げ、史跡公園として整備しました。
 当初は建物を復元して鎌倉の観光、そして盛り上がっていた世界遺産登録の目玉にしよう、という話があったのですが、現在は全体の復元は断念され、お堂の基壇と礎石、堂の前の池を再現することで止まっています。現在見る建物の基盤は、鎌倉時代の地面の上に約60cmの盛り土をした上に復元したもので、礎石も鎌倉時代のものは埋め戻し、現在のものは同じような石を他所から運んできたものです。また、池も30cmかさ上げして復元していますが、まだ本来の池のすべてではありません。
 復元に当たっては、鎌倉時代の鎌倉の文化圏であった金沢文庫の有名な称名寺の池などを参考に進められてました。いまのところ、リアルな建物の再現は困難なようで、かわりにCGでの想像図が専門家によって作られ、説明板などでっみることができます。また鎌倉扇が谷の歴史文化交流館にも復元模型が展示されています。

永福寺史跡公園パンフレットより拝借

復旧工事の様子

  • 2012年6月
  • 2015年2月
  • 2016年12月
  • 2017年11月
  • 2018年1月

永福寺裏山の遊歩道

 隣のテニスコート裏の永福寺史跡公園入り口から裏山の遊歩道に上ることができます。永福寺跡の全景を見るには最適の場所ですのでぜひ上ってみてください。整備された山道を辿っていくと、養福寺の北側の遣り水の源流の沢に出て、そこから公園北側に降りることができます。
 永福寺の谷の向かい側には、経塚のある山が見えます。

2016/12/28

永福寺創建と消滅

源頼朝の創建

 奥州藤原氏は平安末期から金の産地を背景に一大勢力となり、清衡-基衡-秀衡の三代で平泉の中尊寺を中心とした高い文化を誇っていました。初代清衡以来、京の文化を採り入れ、盛んに仏教を保護しました。とくに毛越寺は、典型的な浄土庭園として永福寺の手本となりました。中尊寺・毛越寺などを中心として2011年に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として世界遺産に登録されました。(頼朝は悔しがっているかもしれません。)

 平泉の高い文化を目の当たりにした頼朝はそれに負けない大寺院の建造を決意して同年12月に建造を開始、1192(建久3)年11月に完成しました。源頼朝は現地に何度も足を運び、自ら熱心に弘治を指揮したことが『吾妻鏡』にでています。池を掘りだしや、石の配置には頼朝自身が詳しく指示しています。

コラム 畠山石
 建久3年秋、永福寺の庭園を造る際、畠山重忠は3メートルもある大石を一人で持ち上げ、池の中を歩いていき、頼朝の指図どおりにおいたので、頼朝をはじめ観るものすべてその怪力に驚いた。畠山重忠は一ノ谷の戦いでの鵯(ひよどり)越えでは愛馬を担いで急坂を下りたと言う伝説があるほど怪力で知られていた。
この時重忠が運んだという大石は現在も永福寺跡の片隅に残っている。

永福寺の盛衰

 『東関紀行』(1242)には
 「二階堂は殊にすぐれたる寺なり。鳳の甍、日にかがやき、鳧の鐘(釣り鐘)霜にひびき、楼台の荘厳よりはじめて、林池のふもとにいたるまで、ことに心とまりて見ゆ」とあります。その他、『海道記』、『とわずがたり』にもわずかですが記述が見えます。

 永福寺は頼朝の御願寺として格別の保護を受けていましたが、源家三代の将軍が絶え、北条氏の時代になると何度かの火災もあって次第に衰微しました。室町時代には足利氏の保護もあって一時繁栄し、15世紀前半までは存在していましたが、いつしか廃寺となり、現在では「二階堂」という地名にその名残を残すのみです。
 鎌倉には、鎌倉時代に創建された寺院がたくさんありますが、同時に現在は維持となってしまった寺院もかなりの数に上ります。執権北条氏一門が創建した臨済宗系の陣は五山を始め、その多くが残っていますが、なぜか、頼朝・頼家・実朝の源氏三代の将軍が創建したお寺はほとんど残っていません。とくに頼朝は、生前に鶴岡八幡宮寺、勝長寿院にこの永福寺の三大寺院を御願寺として創建しましたが、そのいずれもが廃寺となってしまいました。 → タグ 廃寺

源頼朝と鎌倉 (人をあるく)
吉川弘文館
2016年刊。坂井孝一著。初の武家政権を鎌倉に創設し、弟の義経を死に追いやった冷徹な政治家とされる頼朝。平治の乱や石橋山合戦など、相次ぐ命の危機で負った心の闇に迫り、伊豆・鎌倉・平泉などゆかりの地を訪ね、波乱の生涯を描き出す。
鎌倉の歴史: 谷戸めぐりのススメ
高志書院
2017年刊。高橋慎一郎編。若手研究者による鎌倉の考古学研究の成果をまためた。永福寺についても「大伽藍を復元する」で最新の情報が紹介されている。興味深い一冊。
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