北条義時法華堂跡

北条義時法華堂跡

 源頼朝墓の石段の右手、細い道を東に向かって進んでいくと、まもなく左手に大きな石灯籠に挟まれた石段が現れます。そこを登った小高い平場が第2代執権北条義時の供養のために建てられた法華堂(頼朝の大倉法華堂とは別)のあった場所です。ついこの前まではほとんど顧みられることなく、草が生い茂っていましたが、2022年に北条義時がNHKの大河ドラマの主人公になってから、にわかに注目されるようになりました。

北条義時法華堂跡登り口

法華堂跡

 発掘調査の結果、寺院建築の跡が発見されお堂があったことが確認されたため、頼朝墓とともに国指定の史跡にされています。
 この平場の様子は大分変わりました。次に2013年9月の草が生い茂っていた頃と、整備された後の2017年11月の写真をあげておきます。 

左から三浦一族終焉窟、大江広元・毛利季光参道(鳥居)、島津忠久参道
史伝 北条義時: 武家政権を確立した権力者の実像
小学館
2021年刊。山本みなみ著。最新の研究を盛り込んだ、『鎌倉殿の13人』の主要人物北条義時の評伝。吾妻鏡の伝える実朝暗殺事件と北条義時の関係の真相に迫る。

三浦一族終焉の岩屋

 法華堂跡の奥の草むらの中にやぐらの口がぽっかりと空いています。近くに行って覗いてみると、五輪塔などが残されています。これは大倉法華堂で自害した三浦一族を供養したものとされています。

三浦一族終焉の洞窟

大江広元などの墓所

 平場の奥に鳥居が見え、そこから急な石段が伸びています。右手にもう一つの石段があります。まず左手の鳥居のある石段を登っていくと、そこには二つの石窟があります。さらに右手の石段を登り切ったところにはもう一つの石窟があります。
 この三つの石窟は、左から、毛利季光・大江広元・島津忠久の墓とされているものです。真ん中の大江広元は源頼朝が鎌倉幕府を開いたとき、政治の実務を担当するため京都から呼ばれた人物で、学者の家柄に生まれて実務に堪能であったので頼朝に深く信頼され、また広元もそれに答えて幕府を実際に取り仕切ったのでした。教科書に出てくるように政所別当にもなっています。

左から毛利季光、大江広元、島津忠久の墓

 実はその大江広元の子孫の季光が初めて毛利氏を名乗り、その毛利季光の子孫が後の戦国時代の中国地方の毛利氏となり、さらに江戸時代には西国の雄藩として大きな力を振るうようになりました。この墓は幕末になって毛利家が自分の先祖の大江広元と毛利季光を顕彰するために、広元が仕えた源頼朝の墓の近くに作ったものです。それは島津家の初代忠久の墓の隣でした。なお、大江広元の墓と伝えられる石塔は、鎌倉の十二所の明王院の裏山を登ったところにもあります。
 その隣の墓の主の島津忠久とは、言うまでもなく幕末に毛利家と競った大大名薩摩の島津家の初代に当たる人物です。島津家の言い伝えでは忠久は源頼朝の落胤ということになっているのです。そこで幕末の当主重豪しげひで(1745-1833)が頼朝墓を整備し、石段や玉垣を奉納しました。そのとき、初代忠久の墓を毛利氏の先祖の墓の隣につくったのです。墓の隣の石碑には安永8年(1779)の年号がみられます。
 この三人の墓はしたがってもとからあったものではありません。かつてここあった古墳時代の横穴墓を利用し、五輪塔を置きそれぞれの墓にしたのです。なんのことはない、幕末の毛利と島津の意地の張り合いが、このような形に残っているわけです。

毛利季光墓
大江広元墓
島津忠久墓
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