源頼朝の墓所(法華堂跡)

源頼朝墓

 鎌倉駅から六浦に至る金沢街道の鎌倉宮への分岐点である「岐れ道」バス停から左に入り、住宅街を進むと清泉小学校があります。そのグランドの角に「大蔵幕府跡」の碑がたっています。このあたりは大倉(大蔵)といわれ源頼朝が創設した鎌倉幕府が最初に置かれたところ、とされています。その前をまっすぐ進むとまもなく左手に小さな公園があり、左手の「法華堂跡」の碑の先にある石段を登ると、そこが頼朝の墓といわれるところです。

頼朝の墓と法華堂

〒248-0004 神奈川県鎌倉市西御門2丁目5

頼朝墓への道
源頼朝墓

 源頼朝は1199(正治元)年正月13日、53歳で死去しました。その墓とされる石塔が立つあたりは、頼朝が持仏堂として聖観音をまつっていたところで、遺骨がその建物の下に納められ、それ以後は「大倉法華堂」と言われて幕府初代の将軍の霊廟として御家人たちの尊崇をうけ、法要がここで行われるようになり、鎌倉幕府の特別の保護を受けた大寺院の一つとして栄えていました。
 平安時代からは鎌倉時代初めまでは、身分の高い人が亡くなると火葬にされ、その遺骨を埋めたところに法華堂を建てて供養するというのが一般的でした。「法華堂」には墓所の意味もあり、北条義時の墓所にも法華堂が建てられました。

頼朝の墓の平場

 現在、頼朝の墓の墓塔が建っているところの東側に広がっている平場が、法華堂のあった場所と考えられています。

大倉法華堂の惨劇
 この大倉法華堂は、幕府の下で最も大切な聖地として守られていましたが、幕府の中枢に近かっただけに、たびたび激しい政争の舞台となりました。1213(建保元)年、和田氏の乱では大倉御所が焼かれ、実朝は法華堂に難を逃れています。特に1247(宝治元)年、三浦一族が北条氏と対立して起こった宝治合戦の時には、三浦泰村・光村兄弟は戦いに敗れて最後にこの法華堂にこもって奮戦し、、約500人が戦死、逃れた一族は隣の北条義時法華堂の脇の窟で自害して滅びました。この経緯は『吾妻鏡』に詳しく書かれています。

頼朝の墓は本物か?
 現在の頼朝墓と言われる石塔は、鎌倉時代のものではなさそうです。江戸時代の安永年間に大御堂(勝長寿院跡)にあった石塔を移築し、1779(安永8)年に薩摩藩主島津重豪しげひでが整備したものです。島津氏には、初代忠久は頼朝の御落胤という伝承があるので、島津氏はその権威を示すために頼朝の墓を整備したのでしょう。さらに頼朝墓の東の北条義時法華堂跡地の山腹に島津忠久の墓所も作っています。それは現在、毛利氏の建てた大江広元墓などと並んでいます。
 頼朝墓とされる石塔は、1989(平成元)年、何者かによって壊され、鎌倉市が上部の三石を復元しました。このとき、墓の内部の調査は行われず、どのように造られているか、かどうかは厳密にはわかっていません。本格的な調査が待たれます。

白旗神社(法華堂跡)

 山腹にあった大倉法華堂はやがて廃絶し、江戸時代にはこの山の麓の平地に、それとは別に法華堂が作られました。それが現在の白旗神社があるところとされています。
 源氏は白旗を旗印にしていましたので、鶴岡八幡宮の中に頼朝・実朝を祀る「白旗神社」、藤沢には義経を祭神とする「白旗神社」があります。いずれも源氏にかかわる神社です。

新編鎌倉志「頼朝屋敷」

 江戸時代はじめに水戸光圀が作らせた『新編鎌倉志』を見ると、現在の清泉小学校一帯は田んぼになっており、「頼朝屋敷」と書かれています。江戸時代にはかつての大倉幕府は跡形もなく、農地になってしまったのです。その図の上の方に、法華堂と書かれており、そこが現在の白旗神社の位置と想定できます。そこから山道があり、頼朝の墓につながっていますが、墓所にはすでに建物はありません。また墓石も現在のような層塔ではなく、五輪塔が描かれています。
法華堂から白旗神社へ
 江戸時代の法華堂は明治維新で神仏分離令が出された際、祭神を源頼朝とする神社にされました。頼朝の位牌を守る仏教寺院としての法華堂は破却されてしまいました。そのとき法華堂にあった如意輪観音坐像などの仏像や、手水鉢などの石造物は、やや離れた西御門・来迎寺に移されたのでした。
 

 石段を降りて顕彰碑を見ながら、細い道を左手に入ってしばらく行くと、左手に北条義時法華堂跡・大江広元らの墓に上がる石段があります。

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