東慶寺

雨の東慶寺 2014/3/1

 東慶寺は北条時宗夫人覚山尼を開山とする禅寺で、長く尼寺として続き、江戸時代には「縁切り寺」としてよく知られていました。現在では尼寺ではなくなりましたが、春の梅を初め季節の花が咲き、境内奥の墓地には多くの著名人の墓があることから、今も多くの方が参詣する古刹です。北鎌倉から歩いて5分ほど、円覚寺・浄智寺・明月院と並んで北鎌倉を代表するスポットです。

データ

 

  • 宗派 臨済宗円覚寺派
  • 山号寺号 松岡山東慶総持禅寺 
  • 建立 弘安8年(1285年)
  • 開山 覚山志道尼
  • 開基 北条貞時(時宗の子)
  • 本尊 釈迦如来像
  • 鎌倉市山ノ内1367
  • 電話 0467-22-1663

境内案内

 江戸時代まで、東慶寺は縁切り寺として徳川幕府の特別の保護もあり、本堂・庫裏・山門などをはじめ、多くの塔頭を持つ大寺院でしたが、明治以降急速に衰微し、また関東大震災の被害も受けたため、現在残されている江戸期の建造物は鐘楼しかありません。

梵鐘 創建時の梵鐘は戦国の動乱の時に北条早雲によって持ち去れたようで、現在は伊豆の本立寺というお寺にあるそうです。
 いまある梵鐘は室町時代の観応元(1350)年の銘があり、鋳物師の物部光連が鋳造したものですが、もとは鎌倉材木座の真言宗補陀落寺にあったものです。戦乱で変転し、東慶寺の所領地から発掘されたので、東慶寺に置かれているのだそうです。

本堂 本尊の釈迦如来坐像が安置されています。現在の建物は昭和になって再建されたもので、本来の本堂は明治期に衰微した後、原三渓に買い取られ、三渓園に移築されました。
 旧東慶寺の本堂は現在も三渓園で見ることができます。

  • 宝蔵 昭和53年に新築されました。東慶寺に伝えられる仏像や調度品、工芸品、書画が保存され、また縁切り寺の歴史を伝える離縁状などが残されており興味深いところです。ただし、コロナ禍以来か、2階資料室は閉鎖され、現在は1階の聖観音菩薩像を拝観できるだけになっています(2023/2/28記)。
  • 聖観音菩薩立像(国重文) 東慶寺宝物館で拝観することの出来る聖観音菩薩像には、鎌倉の秘めた歴史がこめられています。
     

 この仏様は、かつて鎌倉西御門(現在の来迎寺のあたり)にあった、鎌倉尼五山第一位の太平寺の本尊でしたが、室町末期の大永6(1526)年、安房の里見氏が鎌倉に乱入したとき、太平寺は焼かれ、その時に里見氏によって持ち去られてしまいました。
 それを江戸時代の初めに東慶寺の要山尼が取り返し、東慶寺に迎えたと云います。なおこの像が安置されていた太平寺の仏殿は室町時代に建築され、いつのころか円覚寺に移築されました。それが国宝の円覚寺舎利殿です。
 さてこの聖観音像ですが、寄木造りの小ぶりの仏様ですが、よく見ると、衣には土紋という土を型抜きして貼り付けるという、鎌倉以外には見られない珍しい手法がとられていることがわかります。そこで鎌倉を代表する仏像の一つとして国の重要文化財に指定されています。

・水月観音(神奈川県指定文化財)
 東慶寺で最も人気が高いのは水月観音でしょう。鎌倉時代の13世紀の作と思われる、寄木造で白衣をまとい、岩座の上にゆるやかにやや斜めに腰をかけ、水に映る月を眺めている姿である。このような姿は水月観音とよばれているが、彫刻では珍しい。お顔の表情、複雑な衣文、丸みを帯びた体の線が見事である。銅製の冠や胸飾りは後世に補ったものであるが、鎌倉時代の優雅な仏像の姿は多くの人を引きつけていました。
 かつては事前に申し込めば拝観できましたが、現在は公開されていないようだ。それも悲しいことです。

尼三代の墓

 宝蔵の前をさらに進んでいくと、次第に樹木の茂る墓域に入っていきます。しばらく行って右手の石段を登り、一段高いところの二本の大銀杏の間を抜けたところにある平場が、開山以下の歴代住持のお墓のある墓域です。
 開山覚山尼の墓は奥まった崖に掘られたやぐらの中にあり小さな墓塔が建っています。その右隣のやぐらには第5世用堂尼の墓がありますが、後醍醐天皇の妹という皇室のつながりがあるので、特別の石段と囲いが作られています。
 第20世天秀尼の墓はやぐらではなく、最も大きな卵塔なのですぐ目につきます。左手には歴代の住持であった尼僧の墓が並び、その右端にあるのが最後の似そうであった方のものです。その向かいの崖下には明治時代の中興の僧といわれる釈宗演の墓があります。

天秀尼墓碑

著名人の墓

 次にあげる人々のお墓があります。時間があったら探して見ましょう。くれぐれもお墓であることを忘れず、失礼のないように。
・和辻哲郎(哲学者)・岩波茂雄(岩波書店創業者)・西田幾多郎(哲学者)・安部能成(学習院院長)・野上豊一郎、弥生子夫妻・鈴木大拙(仏教学)・出光佐三・前田青邨(日本画)・小林秀雄(文芸評論家)・太田水穂(歌人)・田村俊子(作家)・高見順(作家)・大松博文(バレーボール監督)・織田幹雄(陸上競技)などなど

季節の花

東慶寺 2018/2/28
秋明菊 2017-10-12
 残念なお知らせ

 2023年1月、東慶寺さんをお訪ねしたところ、石段脇に立て札が立っていて、入山料を頂くことをやめますと書いてあった。それだけでなく、境内での一切の写真撮影は禁止としますとあった。何とも残念な事です。不心得な写真撮影者が境内を荒らしたり、雰囲気を壊したりするという理由で境内の写真を禁止しているところは、極楽寺などいくつかありましたが、東慶寺もそうするのか? と思うとがっかりです。
 仏像の撮影禁止なら納得しますが、花や石仏、景色までカメラを向けていけない、というのはいささか理解に苦しみます。境内の花や景色をカメラに収め、その喜びをブログで人に伝える……、これはやってはいけないことだと東慶寺さんはお考えなのでしょうか。
 もちろん、迷惑な行為といわれるなら慎まなければなりません。ただ仏様を拝むと共に花や境内の雰囲気を愛で、その想いをカメラとネットを通じて伝えるということが迷惑だとされてしまうのなら、それは万人にひらかれているはずの仏教寺院としてはいかがなものか、と感じてしまいます。
 東慶寺さんのご事情もおありなのでしょうが、せっかくの梅の季節、境内のすべてとはいいませんが、撮影を許可していただきたいものです。
 ということで規則どおりにいけば今年の梅の写真は撮れません。そこで、かつて撮影したものをここではあげることにします。コロナ禍いらい、なにか規則ずくめになってきた昨今の風潮には寒々としたものを感じます。美しいものを自由にカメラに収めることの出来るお寺に戻ってほしいものです。<2023/4/10>

東慶寺の歴史

横浜・三渓園に移された旧東慶寺仏殿

 明治維新になって幕府の保護がなくなった東慶寺が、困窮して仏殿を売りに出した。それを惜しんだ横浜の豪商原三渓が買い取り、自分の庭園三渓園に移築しました。あやうく二束三文で売られて薪にされかけた東慶寺の仏殿はこうして救われました。そして鎌倉から遠く離れて、横浜本牧の三渓園にひっそりと建っています。三渓園を訪れる人も、これが東慶寺の旧仏殿だということに気づく人は少ないようです。

基礎を築いた三人の尼僧

  • 東慶寺の創始 開山の覚山尼は、鎌倉幕府8代執権北条時宗室。開基の北条貞時は北条時宗の子の第9代執権。東慶寺は、覚山尼の夫、北条時宗が創建した円覚寺の向かい側に建立された。建立の年は二度目の元寇、弘安の役の4年後のことです。後醍醐天皇の皇女用堂尼が入ってからは特別に「松岡御所」と言われるようになりました。室町時代には、鎌倉尼五山の第二位に列せられました。幕府、朝廷と関係が深い東慶寺は特別高い寺格を持つようになり、徳川幕府からも112貫380文の寺領を寄進されました。寺領は二階堂、十二社、極楽寺にあり、鎌倉では鶴岡八幡宮・円覚寺次いで三番目に多く、建長寺よりも多かったのです。
    ※鎌倉尼五山 太平寺・東慶寺・国恩寺・護法寺・禅明寺 東慶寺以外はすべて廃絶した。
  • 開山覚山尼 東慶寺開山の覚山尼は安達義景の娘です。当時は、1247年の宝治合戦で三浦一族が滅んでから、執権北条氏を支える御家人の中の最有力の一族となっていました。堀内殿といわれた彼女は、10歳の時に一つ年上の北条時宗の夫人となり、18歳で執権となり元寇の国難を迎えた夫の時宗を支えました。時宗は臨終に先立ち、出家しましたが、夫人も落髪して無学祖元から覚山志道の名を与えられ、翌年に東慶寺を創建しました。寺伝では、覚山尼は不法の夫に身を任せた女性を不憫に思い、この寺に駆け込むことによって女性を救う「縁切り」寺法を定めたとされています。ただし、鎌倉時代から縁切り寺として機能したとは考えられません。
  • 用堂尼 第五世の用堂尼は後醍醐天皇の皇女で、護良もりよし親王の姉にあたります。護良親王が非業の最期を遂げた後、その菩提を弔うために東慶寺に入ったとされており、そのため東慶寺は「松岡まつがおか御所」と呼ばれるようになりました。裏の墓所は宮内省管轄とされています。
  • 天秀尼 元和元(1615)年、大坂夏の陣で豊臣秀頼と淀殿は自害し、豊臣家が滅びました。秀頼の子供国松は大阪城を逃れましたが、家康の命で探し出され殺されました。秀頼にはもう一人女子がいました。秀頼夫人の千姫(家康の孫)の娘ではありませんでしたが、その養女とされていたようで、命を助けられます。そしてわずか7歳で東慶寺に預けられ、尼になりました。家康には豊臣の血筋を絶やす目的があったわけです。彼女(名前は伝わっていません)は家康から望みを聞かれ、「開山から続く縁切寺としての寺法が絶えないように」と願い出て、第20世天秀尼となりました。それ以後江戸時代を通じて幕府公認の縁切り寺として寺法を行使できたのです。
    ※千姫 大阪城落城の時、千姫を助け出した坂崎出羽守との結婚が約束されたが結局、本多忠刻と再婚、坂崎出羽守は婚礼の時に乱入しようとして家臣に殺されるという悲劇が起こった。

駈け込み寺

 寺伝では開山当初から夫と離縁しようとする女性が駆込む寺であったとされていますが、鎌倉時代の記録にはありません。そのような寺法が成立したのは江戸時代からのようです。

  • 江戸の離婚事情 江戸時代にになると、夫は妻を一方的に離縁することができました。例えば、「子無きは去れ」とされ、子供を産めない女性は離婚させられました。それに対して女性の方からは、夫に不満があっても離婚の自由はありませんでした。そのような中で、鎌倉の東慶寺と、上州(群馬県)世良田の満徳寺の二ヶ所だけは幕府公認の女性救済の寺として認めれれていました。東慶寺は「駈け込み寺」で、満徳寺は「縁切り寺」と言われています。
  • 必死の駈け込み 東慶寺に駆け込んだ女性は、足かけ三年(当初は満三年でした)すごせば、自動的に離縁が認められるとされていました。駆け込もうという女性が追っ手に捕まりそうになっても、東慶寺の屏からかんざしやわらじなど身につけていたものを投げ入れれば、駈け込みが認められたそうです。女性が駆け込むと寺役人が身元を取り調べ、夫を呼び出して調停が行われ、そこで解決する場合もありましたが、解決できなかった場合は寺に入ります。尼さんになるのでは無く、尼さんの世話をする仕事をします。駈け込みの時の持参金によって仕事は違っていました。このように、東慶寺は、女性にとって逃れることのできるところだったわでで、尼寺ですから厳格な男子禁制になっていました。
  • 東慶寺のサイドビジネス 東慶寺には天秀尼のもたらした持参金と江戸幕府から与えられた寄進地からの財力がありました。そのお金は、今の銀行のような役割を果たし、金貸しを営んでいました。もちろん利子は低利で、持参金の無い女性には低利で貸し付け、寺を出て仕事を見つけてから返済すればよかったのです。年季が明ければ再婚も可能でした。
  • 東慶寺花だより 東慶寺の門前には、未決の間、当事者が宿泊する旅籠が三軒、柏屋・仙台屋・松本屋がありました。そこではさまざまな人間模様が繰り広げられたことでしょう。それをドラマ化した小説が井上ひさし『東慶寺花たより』です。面白い話がたくさんあり、巻末には東慶寺の説明もありますのでぜひご一読ください。

もっと学びたい方に

東慶寺と駆込女 (有隣新書51)
有隣堂
東慶寺前住持の井上禅定師が縁切り寺の歴史と実際をわかりやすく解説。手頃な新書版ですが内容は豊富。東慶寺訪問前に是非ご一読を。1995年、有隣新書。
東慶寺花だより (文春文庫 い 3-32)
文藝春秋
井上ひさし。離婚を望み、寺に駆け込む女たち。鎌倉の四季を背景にふっくらと描かれる、笑いと涙の傑作時代連作集。著者自身による特別講義を巻末収録。これが役立ちます。

参拝の後に

 東慶寺の門に上る石段の左手に、喫茶・吉野があります。参拝を終わり、帰る前にいっぷく、立ち寄ると好いでしょう。もし、本格的なイタリアンのランチを、ということでしたら、表の通りの角にタケル・クィンディチがあります。ここは江戸時代には東慶寺の役所があったところです。懐と相談が必要な場合は、ちょっと歩いて寿司とラーメンの新とみがお勧め。

喫茶・吉野
東慶寺には寄らずとも、吉野には行きたい。昔ながらの雰囲気のある喫茶店。

イタリアン タケル・クインディチ
実は入ったことはありませんが、評判は上々のようです。予約が必要みたい。

すし・ラーメン 新とみ
表の通りに出て右に行った左側。気軽に入れる北鎌倉の庶民派。

タイトルとURLをコピーしました