散在ヶ池は、鎌倉市内の今泉にあり、現在は「鎌倉湖」とも言われ、市の管理する公園となっています。周辺の市街地から離れており、静かで小さな湖が周辺の山林と一体となった景観を楽しむことができます。池のまわりは、ややアップダウンが険しいですが、ハイキングコースとして一周できます。また最も奥まった南口から出れば、今泉の住宅街を抜け、天園ハイキングコールを経て建長寺など北鎌倉に出ることも出来ます。
散在ヶ池への行き方
・バス 大船駅東口 交通広場
鎌倉湖循行き 今泉不動下車
徒歩5分
*南口から入る場合
同じバスで鎌倉湖畔下車
徒歩7分
*湖畔散策だけの場合は、今泉不動で
下車し、南側入り口からの方が近い。
散在ヶ池(鎌倉湖)とは

散在とは この辺りは裏今泉といい、中世以来、鎌倉石の石切場だったようです。いまでもハイキングコースを登っていくと石切場の跡を見ることができます。すべて称名寺(今泉不動)の持山でしたが、江戸時代終わりごろの安政年間(1854~1859)、住職がこの一帯を無償で提供し、大船・岩瀬・今泉の三か村の入会地としました。三か村の持ち分がちらばっていた、つまり「散在」していたため「散在山」と言われたそうです。農民は生活用の薪や柴、萱などを切り出すほか、特に、この三村には戸塚の宿での参勤交代の大名への馬の餌を供出する助郷役が課せられていたため、その草刈り場として貴重でした。

水争い 江戸時代には、砂押川の下流域の岩瀬と大船は「大船千石」といわれ、大水田が広がっていましたが、それに必要な水源は砂押川しかなく、雨の少ない年には「水争い」が起こっていました。水の分配での争いごとになるのを防ぐために白山神社に「みくまり」神社があったのでした。明治2年になって、近傍の小菅ヶ谷村(今は横浜市栄区)の梅澤与次右衛門という人が盡力し、岩瀬村の栗田源左衛門らと話し合い、「散在山」の砂押川の谷を堰き止め、ため池を造りました。それが「散在ヶ池」の始まりでした。
農業用水から公園へ それでも池が小さすぎ、水争いが絶えなかったため、昭和32年に大船・岩瀬の水利組合が結成されて、改修・拡張が施され、堤の高さが13.3m、長さが56.5mの堰堤が昭和34年に完成し、立派な農業用水となりました。昭和57年には公園として整備され、春の桜、秋の紅葉をはじめ、蛍の観賞など、鎌倉市民が自然と親しむことの出来る公園として利用されています。
春の散在ヶ池


初夏の散在ヶ池

秋の散在ヶ池




せせらぎの道(通行禁止中)
池の北のほとりから、沢に降りる「せせらぎの道」があります。残念ながら、現在は整備中で通行禁止になっていますが、初夏のイワタバコなどの観察のできる気持ちの良い散策路なので、ぜひ再開してもらいたいものです。
ここでは通行再開を願って、通れた頃の写真で様子をお知らせします。




お疲れ様でした
散在ヶ丘公園南口を出て、坂を下りてくると、左手には鎌倉湖墓園があります。もうそこは今泉の里です。春にはのどかな里山風景です。
