鎌倉時代の薬師堂址
大町四つ角から三浦道を南に向かい、横須賀線の踏切まで行くと、左手に本興寺があり、右手に小さなお堂があります。このお堂は現在は辻薬師と言われていますが、もと幕末までは医王山長善寺という寺院があったところで、その境内は現在の横須賀線の線路を含む広い一帯だったようです。長善寺は奈良時代に創建されたという古いお寺でしたが、幕末に火災に遭いました。そのとき本尊の薬師三尊と十二神将の仏像は難を逃れ、それを安置する薬師堂だけが残りました。明治22年、横須賀線を敷くために現在地に移され、その後村人が薬師さまを護ってきました。
以下、お堂脇の解説板の説明です。
医王山長善寺は、聖武天皇の神亀年間(754ー729)東国八ヵ国惣追捕使に任じられ鎌倉郡由比の郷に居住していた由比の長者〔染谷太郎太夫時忠〕(藤原鎌足の玄孫)が鷲に攫われたわが子を探し遺品の散乱していた名越字御嶽の地に塚を建て供養し後年医王山長善寺と称したと伝えられている。(JR名越トンネル周辺~県道トンネル一帯)
延宝二年(1674)五月五日徳川光圀は大日本史編纂にあたり武士の地鎌倉を調べる必要上鎌倉の寺社等を歴覧のおり辻薬師を訪れ薬師如来等を〔鎌倉日記〕に記述している。
元禄十六年(1703)十一月二十二日の地震により寺は損壊、妙本寺派本興寺復興〔中興開山〕に伴い山門前の鶴が丘砂丘上(源頼朝の御家人佐貫四郎廣綱屋敷跡)に再移転(薬師如来像胎内銘札)した、長善寺は文化・文政(1804ー1829)の頃には「霊験あらたかな薬師さま」と言われ遠く江戸からも参詣に来る人も多く寺は繁盛した、しかし幕末に長善寺は火災で焼失、薬師堂の諸仏は難を免れたが以来無住となり今日まで村人たちの宗派を超えた奉仕により護られて来た。〔現在辻町自治会有志により維持管理〕
貴重な仏像
お堂の中にあった仏像は、調査の結果、本尊の薬師如来像は平安時代まで遡り、十二神将のうち八体は鎌倉時代のもであることがわかりました。これらの仏像は神奈川県重要文化財に指定され、現在は修復措置が施され、鎌倉国宝館のメイン展示となっています。
今お堂にあるのは、平成6年に東京芸大の先生が模作した薬師三尊像と十二神将のうちの二体です。十二神将のうち、鎌倉時代の作である4体のは、現在の鎌倉国宝館に収蔵されているものです。
以下、お堂の前の解説板を元に、お堂にあった仏像について、みていきましょう。
薬師如来像
本尊である薬師如来(薬師瑠璃光如来又は、大医王仏とも言う)立像は、鎌倉に現存する数少ない平安仏の1躯で【行基】の作と伝えられている。昭和15年(1940)に行われた調査で如来の胎内より以前は二階堂の医王山東光寺の本尊であったとの銘札が発見された、これは、承元3年(1209)鎌倉中寺社奉行民部太夫行光(二階堂氏)が永福寺の傍らに建立した医王山東光寺の本尊であったが、建武2年(1335)後醍醐天皇の皇子護良親王が東光寺の獄舎で足利直義の家臣淵辺義博により殺害された後、寺は廃寺となり薬師如来像は医王山長善寺に移され本尊となったものと思われる。(平成6年制作の解説板による)
十二神将像
鎌倉時代に造られた八躯と、像の一部を使用し補修した四躯の十二神将像は、二階堂の古義真言宗泉涌寺派鷲峰山覚園寺(大倉薬師堂)の十二神将の原型と伝えられている。
薬師堂と諸仏像は度重なる移転や災難に遭遇し損傷が著しく文化財としての存続にも支障をきたす上、当薬師堂の設備では保管維持管理の面で文化財保護法の趣旨に沿えず、平成五年(1993)四月に施設の完備している鎌倉市国宝館(鶴ヶ丘八幡宮境内)に移管した。
ここに安置してある薬師三尊像と十二神将像のうち、迷企羅大将像・波夷羅大将像二躯は、平成六年(1994)五月に扇ヶ谷の古義真言宗泉涌寺派泉谷山浄光明寺鎌倉仏教会会長大三輪龍卿住職・大三輪龍彦副住職(共に故人)を導師として入魂された東京芸術大学特別講師彫刻家森純一先生(当時)指導のもと東京上野の東京国立博物館内地下修理室において造像された仏像で、真の仏像は十四年の歳月を要してすべての尊像の修理を完了し鎌倉市立国宝館に展示されている。(平成25年 辻薬師保存会)
ミニギャラリー
お堂の中は、扉の穴からお賽銭を入れると、しばらくの間、「のぞく」ことができます。