八雲神社(大町)

八雲神社

 八雲神社は11世紀の末、新羅(しんら)三郎義光(源頼義の子、義家の弟)が安倍貞任を討つために奥州に向かう途中、鎌倉を通ったときに疫病が流行していたので京都の祇園社(八坂神社)を勧請しました。義光の子孫の佐竹氏がこの近くに住み、その霊も祀っています。
 なお、佐竹一族の屋敷は八雲神社裏の祇園山の東側に今も佐竹屋敷と言われる一角があり、現在は大宝寺があるあたりにあったと云われています。
 例祭の御輿渡御に伴う「天王唄」や「鎌倉ばやし」の神事芸能を伝え、正月六日には「湯花神楽」が行われる。
 神社の裏山は「祇園山」といわれ、神社の脇にその登り口があり、祇園山ハイキングコースとなっています。祇園山山頂へは急な登りですが、山頂からは鎌倉の町と海が一望できます。

 八雲神社データ

  • 祭神 須佐之男命、稲田比賣命、八王子命、佐竹氏の霊
  • 由緒 永保年中新羅三郎源義光公の勧請と伝う。以降、室町時代関東管領足利成氏、戦国時代小田原城主北条氏直、慶長九年徳川家康などの保護を受ける。
  • 古くは祇園天王社と称したが、明治維新に八雲神社と改称。<社頭の解説板「八雲神社略記」による>
2016/1/7

 鎌倉にも祇園祭があった

 祇園祭は町衆が山鉾を仕立てて練り歩く京都の夏の風物詩となっている行事です。室町時代の八坂神社の祇園御霊会(ごりょうえ)に遡りますが、疫病流行は牛頭(ごず)天王(てんのう)のたたりと考えられていたので、その災厄を払うために六本の矛を立てて祀ったのが始まりとされています。
 その祇園祭が鎌倉でも行われていたことはあまり知られていません。室町時代の『鎌倉年中行事』の康正2(1456)年6月14日条に「祇園会の船共が御所に参り種々の舞ものがあった。御築地塀の上に桟敷をつくり、鎌倉公方(くぼう)夫妻がそれを見物した」という記事があり、船共とは山鉾のことと思われ、鎌倉でも祇園会が行われていたことが判ります。
 この鎌倉公方は足利成氏ですが、鎌倉を追われ、古河(こが)に逃れて古河公方となってからは都市としての鎌倉も衰え、祇園祭もいつしか行われなくなってしまいました。八雲神社は大町の鎮守ですが、大町が鎌倉から室町時代に商業地として栄えていたことから考え、祇園祭が行われていたとしても不思議はありません。<『神奈川の不思議事典』p.45>

  • 祇園天王社から八雲神社へ 八雲神社は祇園祭が行われてたことで判るように、もとは祇園天王社といわれ午頭天王を祀っていました。祇園とは釈迦が悟りをひらいたところ祇園精舎のことですから、日本独特の神仏習合の信仰の場でした。ところが明治維新で新政府は新政府は神仏分離を云いだし、神社が祇園を称することは行けない、としたため新たに差し障りのない八雲神社という名に代えたのです。このようなことは全国でも行われ、京都の祇園天王社は八坂神社となりました。
  • 鎌倉の八雲神社 鎌倉にはこの大町の八雲神社の他に、山ノ内、常盤、西御門の四箇所にありますが、いずれも本来は疫病退散を祈る、庶民の信仰の場でした。現在では午頭天王は須佐之男命のこととされていますが、かつての神仏習合(本地垂迹説)では須佐之男命の本地仏は薬師如来とされていたので、薬師信仰の病気平癒を願う思いが一体となったのでしょう。

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