教恩寺

路地の奥の古寺

教恩寺

 教恩寺は『平家物語』巻十「千手前(せんじゅのまえ)」に物語られている平家一門の(きん)(だち)平重衡(たいらのしげひら)ゆかりの寺なのです。本尊の阿弥陀三尊像は源頼朝が平重衡に与え、平家一門の冥福を祈らせたものと伝えられており、またこの寺には、頼朝が重衡を招いて開いた宴の時に用いられたという漆器の盃が寺宝として江戸時代までは伝わっていました。
 鎌倉の中でも小さなお寺で、町の中にあって目立ちませんが、歴史のロマンと鎌倉前期の古仏を伝える貴重なお寺です、建物は新しいものですが、簡素な造りながら欄干に十六羅漢の木彫のある山門も見過ごせません。境内は自由に参観できますが、ご本尊の阿弥陀三尊像の拝観は事前に申し込まれるのが良いでしょう。

 教恩寺データ

  • 宗派 時宗
  • 院号 大聖院
  • 山号 中座山
  • 開山 知阿上人
  • 開基 北条氏康
  • 本尊 阿弥陀如来三尊像
  • 鎌倉三十三観音第十二番札所
  • 電話 0467-22-4457

 平家物語と教恩寺

 平重衡は平清盛の子供で、平家の公達の中でも武勇に優れていました。以仁王が平家打倒の兵を挙げた時、同調した興福寺の僧兵を討つために、「南都焼討」を指揮したのが重衡でした。このとき東大寺の大仏をはじめ、奈良の寺はことごとく焼け落ちました。源平の合戦が始まり、重衡が一ノ谷の戦いで捕虜となると、その武勇を惜しんだ頼朝は鎌倉に護送させ、面会しました。
 平家物語巻十「千手前」によれば、平重衡は、おのれの命は南都焼討の仏罰によって助からないとあきらめていましたが、鎌倉に送られた重衡をみた源頼朝は、若い重衡が覚悟していることを知ってそれを慰めようと、宴を開きます。その時重衡の相手をしたのが千手前でした。千手前の心を尽くした接待に次第に心を開いた重衡は、楽しく一夜をすごしたといいます。しかし、重衡は京都に引かれて行き、罪人として処刑されました。千手前は重衡の処刑を悲しみ、尼となって信濃国善光寺に入り、その菩提を弔ったそうです。

 阿弥陀如来三尊像

教恩寺阿弥陀三尊像

 本尊阿弥陀如来は鎌倉前期の木造で、中央の阿弥陀如来は高さ98.8cm、来迎印(上品(じょうぼん)下生(げしょう))の立像で、右(向かって左)に勢至菩薩、左(向かって右)に観音菩薩の両脇侍が安置され標準的な阿弥陀三尊像となっています。特に両脇侍の二仏はやゝ前屈みの来迎形式となっており、この形式の仏像としては鎌倉最古ではないか、と言われています。確証はありませんが運慶作とも伝えられ、その子快慶の作風を指摘する説もあり、鎌倉彫刻史の貴重な資料で、鎌倉市指定文化財となっています。

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