妙法寺 苔の石段
妙法寺は日蓮宗の寺院で、日蓮の松葉ヶ谷の小庵(御小庵)があったところと伝えられており、山門前に大きな「松葉谷御小菴霊跡」の碑が建っています。寺伝では1253(建長5)年に安房から鎌倉に入った日蓮は、この地に最初の小庵を結んで布教を開始し、身延山に入山するまでの20年間をすごしたと伝えています。
妙法寺データ
- 宗派 日蓮宗
- 山号寺号 楞厳山妙法寺
- 創建 1253(建長5)年
- 開祖 日蓮上人
- 建立 1357(延文2)年
- 中興 日叡上人
- 本尊 釈迦三尊像
- 鎌倉駅から徒歩で15分ほど。バスなら京急バス緑ヶ丘行き名越下車5分ほど、安国論寺まで進み、左に入り、途中の標識を見て右に入る。バスの入らない路地の奥にあるので、歩いて行くのが最適。
- 苔の石段で人気はあるが、観光の寺ではないので、閉門期間に注意。暑中の7~8月と寒中の12月~3月は、土・日・祭日のみ参詣ができる(それ以外なら平日も可)となっている。
- 入山料(お布施) 大人300円 小学生以下200円
- 住所 〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町4丁目7−4
- 電話 0467-22-5813
松葉ヶ谷小庵跡
松葉ヶ谷小庵跡 境内の階段の上に奥の院御小庵跡があり、初めは法華堂といわれ、後に本圀寺と称し、日蓮が身延山に移ってからは日朗→日印→日静に引き継がれ、日静の時、足利尊氏に招かれて京都に移りました。ただし同じような伝承は安国論寺、長勝寺にもありあります。今となってはどこがほんとうの日蓮の草庵なのかはわかりません。同じ日蓮宗のお寺の間でも草庵跡の本家争うがあるそうです。
日叡による再興
鎌倉幕府滅亡後の1357(延文2)年に、後醍醐天皇の皇子、護良親王の子が日蓮宗の僧となって日叡と名乗り、この寺を再興しました。日叡の幼名を楞厳丸、後に妙法房と称したので、山号・寺号になりました。したがって実質的には日叡が開山と言えます。境内には総門・本堂・仁王門・法華堂・鐘楼などの他、日叡上人お手植えのソテツや墓があります。
将軍家斉が参拝 江戸時代には徳川光圀や徳川家斉、御三家や肥後細川家の保護を受け、栄えてていました。仁王門などが朱塗りであるのは将軍家斉が参拝したことによります。現在の本堂は、文政年間に肥後藩主細川家が幼くして亡くなった息女の菩提を弔うために寄進したと云います。また苔の石段の上にある法華堂は文化年間に水戸家が建立しました。
仁王門
苔の石段
鎌倉の苔寺 鎌倉・大町の昔からの住宅街の奥にあり、「観光バスの来ない寺」である妙法寺は、いつもひっそりとしています。また鬱蒼とした木々に囲まれ、本堂の右手の仁王門の背後の苔むした石段には木漏れ日がさし、「鎌倉の苔寺」ともいわれています。
美しき苔石段に春惜しむ 星野立子
※星野立子は鎌倉に在住した昭和の女流俳人。高浜虚子の次女。寿福寺に墓がある。
法華堂
護良親王墓
- 護良親王(大塔の宮)
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、倒幕の戦いの先頭に立ち、建武の新政を助け、征夷大将軍となりましたが、父後醍醐と対立したため、鎌倉に送られ、土牢に入れられました。北条氏の残党の北条時行が鎌倉を奪回しようと迫る中、鎌倉を守っていた足利直義は部下の淵辺義博に護良親王の殺害を命じ、鎌倉を脱出しました。
このとき、親王の首は近くの理智光寺(廃寺)の僧によって持ち去られ、近くの山の上に埋葬されました。土牢のあったところが現在の鎌倉宮であり、その東方の理智光寺址の山上に護良親王の墓があります。護良親王の子の日叡が、別に妙法寺の裏山に建てた護良親王の供養塔が今も残っています。