八雲神社(山ノ内)

八雲神社

 北鎌倉駅の北、横須賀線を見おろす丘の上に鎮座する、山ノ内の旧村社です。もとは牛頭天王ごずてんのう社といわれ、明治維新の後の神仏分離令で八雲神社となりました(大町の八雲神社も同じです)。例年、7月15日前後に行われる夏祭りの際の御輿渡御の神事で知られています。

 八雲神社データ

  • 祭神 須佐之男命
  • 由緒 勧請年月は不詳。もと山ノ内村社で牛頭天王社と称した。
    文明年間(1469~87)、関東管領上杉憲房が祇園大神を勧請したと伝える。
  • 例祭 7月15日

 ミニガイド

 こあたりはかつて鎌倉の北の境界とされ鎌倉時代の元仁元年(1224年)には四角四境祭が執り行われたという記録もあります。
 神社の創建時期は判りませんが、もとは午頭天王社といい、京都の祇園大神を勧請したとも伝えられるので、やはりかなり古い時代に疫病退散を願って造られたものともわれます。鎌倉には、大町、常盤、西御門にも八雲神社がありますが、いずれも祇園大神(須佐之男命)などを祭神とする祇園系の神社で、同じような疫病に悩む村人たちの願いが込められているのでしょう。
 現在の社殿は、円覚寺など近隣の寺院の寄付を受け、江戸時代の弘化3年(1846)に再建されたものです。境内には「安倍晴明石」という陰陽師にまつわる遺物があります。また神社の裏手に鎌倉で最も大きい庚申塔が残されています。ぜひ立ち寄って下さい。
 また7月15日の例祭では、御輿が繰り出し、もう一つの山崎八雲神社の御輿と合体した後、腹帯を巻いて帰ると珍しい珍しい行事もあり、興味深い神社です。

 陰陽師

 境内の北側、一段高くなったところに小さな鳥居があり、そこをくぐって右側に小さな石が置いてあり、「安倍晴明神君」とあります。
 これはもとは麓の鎌倉街道の道の真ん中にあったもので、鎌倉の境界を示しており、鎌倉に入る際にはこの石を踏んではいけない、とされていました。安倍晴明は有名な平安時代の陰陽師おんみょうじで、鎌倉幕府も陰陽道を重視していましたから、安倍氏の一族の陰陽師を鎌倉に招きこのあたりにその屋敷があったとも伝えられています。
 もともと鎌倉街道にあったものがこの八雲神社の隣に移ったのは、戦後、駐留したアメリカ軍が交通の邪魔になるからどけろ、と命令したためだそうです。そのため今やひっそりとここに祀られているわけです。なお、安倍晴明石といわれる石はもう一つ、浄智寺の先の横須賀線踏切を渡った右側にもあります。
 八雲神社の安倍晴明石の左側にある大きな石碑は、江戸時代の山ノ内村の村人が行っていた御嶽山巡礼など、山岳信仰の講中が建てたものです。

安倍晴明石

 庚申塔

 八雲神社の裏手に回ると、立派な石塔が並んでいます。標識にあるように、この中の三猿のある大きな庚申塔こうしんとうは、寛文5年(1665)銘のある江戸時代初めのものという年代がはっきりしており、しかも鎌倉に残る庚申塔で最も大きなものであるので、昭和40年に鎌倉市重要民俗資料に指定されています。

八雲神社裏庚申塔

八雲神社例祭

女神御輿に腹帯を巻く

 八雲神社の夏祭り、例祭は7月15日に行われます(年によって実施日は変わるようです)。この祭では、山ノ内の八雲神社から繰り出した御輿と、山崎八雲神社から出向いた御輿が円覚寺前で出会い、ともに練り歩いた上で山ノ内の天王場というところで合体、妊娠した山ノ内の御輿に安産のための腹帯を巻き付けてから、それぞれ山ノ内と山崎に分かれていく、という物語性のある御輿の渡御が行われます。
 これは古くからの多産と安産を願う民衆信仰が今も残されている民俗行事として重要なものです。コロナ禍が猛威をふるった三年間は中止になりましたが、今年(2023年)は復活すると思います。7月15日前後の好い日に、3時ごろ北鎌倉駅~渡御~4時頃、御輿渡御が行われ、賑わいが戻るでしょう。
 以下の写真は2016年7月17日に行われた例祭の様子です。

タイトルとURLをコピーしました