日本最初の本格的な禅宗寺院、鎌倉五山第一位の建長寺は鎌倉幕府執権北条氏の保護のもと、朝廷からも勅許をえた寺号をもち、当時の日本の最先端の文化センターとしての役割がありました。その境内をじっくりと見て回れば、鎌倉時代を偲ぶことができるでしょう。
データとコース
- 宗派 臨済宗建長寺派
- 山号寺号 巨福山建長興国禅寺
- 建立 建長5年(1253年)
- 開山 蘭溪道隆
- 開基 北条時頼(第5代執権)
- 本尊 地蔵菩薩
- 拝観料 500円 子供200円
- URL 建長寺ホームページ
- 問合せ 宗務本院事務所まで
(0467-22-0981)
すべてを廻る道順
①外門 → ②総門 → ③三門 → ④鐘楼 →
⑤仏殿拝観 → ⑥法堂拝観 →
⑦唐門 → ⑧方丈・庭園
(時間が無い場合はここまで)
⑨河村瑞賢墓(階段あり)→
⑩回春院・大覚池 →
⑪半僧坊(長い階段あり)→
⑫勝上嶽(急な石段を登る)
ここから天園ハイキングコースへ
建長寺は境内が大変広く、三門・仏殿・法堂・方丈を中心としたエリアの他に、観光では立ち入ることの出来ない修行道場エリアといくつかの塔頭があります。見ることのできる範囲を一回りするには1時間は必要、最も奥まったところ、長い石段を登って山頂にある半僧坊まで行けばたっぷり2時間はかけたいものです。
建長寺の歴史については後で学ぶとして、まずは広い境内を一回り歩いてみましょう。
建長寺をめぐる
外門
バス停を降りるとすぐに「臨済宗五山第一 建長寺」の巨大な石柱が目に入ります。大きな柏槇に挟まれた形になっているのが「外門」で、見上げると「天下の禅林」とあります。
境内に入る前にひとつ。外門の前の道は鎌倉街道で、鎌倉時代から位置は変わりませんが、明治以降に道路がひろげられ、車も通るようになって様子はだいぶ変わりました。
またむかしは柏槇の木のたもとに五山石という石を五つ積み上げた石塔があったそうですが今は見あたりません。
赤い郵便ポストの下に、色の違うタイルが四角く敷かれていますが、ここはかつて、鎌倉五名水の一つに数えられた金龍水という水場でした。今では暗渠になっています。
門のすぐ左手の近代的な建物は建長寺が経営する「鎌倉学園中・高等学校」です。かつては塔頭の一つ禅居院があったところですが、現在は禅居院は道路の反対側に移っています。
総門
総門は当初は禅宗様らしい大型の八脚門であったらしいのですが、何度か火災と再建を繰り返し、関東大震災で倒壊してしまいました。そこで、昭和18年に京都の般舟三昧院の表門を移築しました。扁額は焼けずに残った鎌倉時代のものを現在も使っています。中国から建長寺に招かれた高名な禅僧一山一寧が、山号を書いのですが、間違えてるのでは、と思われるかも知れません。
巨の字が変ですね。しかしこれは間違ったのではなく、勢いで点を付けることがあるのだそうです。
総門を入ると、春ならばいきなり桜が目に入るでしょう。入山料を支払って、桜の下を抜け、山門に向かいます。
三門
三間の重層門で扁額は『建長興国禅寺』とあり、後深草天皇の筆と伝えられています。現在の三門は第201世万拙和尚の努力で江戸中期の安永4(1775)年に完成、室町期の禅宗様を伝える堂々としたものです。また毎年7月15日には三門前で梶原施餓鬼会が行われていますが、それは蘭溪道隆が梶原景時の霊を慰めるために始めたといわれています。
豆知識 三門とは
普通、お寺には山号があり、○○山△△寺といいます。そこでお寺の門は「山門」といい、お寺に入ることを入山とも云います。
ところが禅宗の寺院では山門とはせず、「三門」と云います。三門とは、三解脱門の略で、空・無相・無作の三つの悟りを表しており、この三門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれる ことを意味します。
そして三門の二階には宝冠釈迦如来像、十六羅漢像などが安置されており、三門を入る人々を静かにみ守っているのです(建長寺三門の解説板より)。
エピソード たぬき和尚
建長寺の谷奥に住んでいた古狸は、三門を再建するという大事業の話を聞き、お世話になったお礼にと、お坊さんに姿を変え、浄財勧進の旅に出ました。
お金を集めながら中山道板橋の宿に泊まったとき、あんどんの光をうけてたぬきの姿を宿の主人に見られてしまいました。噂を聞いた駕籠屋が、駕籠に乗ったお坊さんに犬をけしかけました。
犬は駕籠の戸を破ってお坊さんを引きずり出し、かみ殺してしまいました。駕籠の中には集めた金三十両と銭五貫二百文が入っていました。その金を建長寺に届けられ、三門の再建に役立てられたそうです。
梵鐘
創建当時の建長7(1255)年に北条時頼が大檀那となり、蘭溪道隆が銘文を選し、物部重光が鋳造したのがこの梵鐘です。
総高208cm、口径124.13cm、重さ2.7トンの巨鐘で、国宝に指定されている。
現在は、どっしりとした茅葺き屋根が梵鐘を守っているが、数年前までは貧弱な茅葺き屋根でした。次のギャラリーの2014年3月の写真を見て下さい。現在とはだいぶ様子が違います。
鐘楼の左手に句碑があり、「咳一つきこえぬ中を天皇旗」とある。明治~大正に活躍した川柳作家、井上剣花坊という人の作。明治3年長州に生まれ、苦学して川柳作家となり、川柳の改革に取り組んだ。鎌倉に住み、昭和9年、建長寺で亡くなった。
仏殿
柏槇
柏槇は、和名をイブキ、中国・朝鮮の原産の樹木です。現在の建長寺仏殿前の柏槇のうち、何本かは創建当時、蘭溪道隆が中国から苗木を持参し、お手植えと伝えられています。たしかに創建まもない元弘3(1331)年の境内指図を見ると、現在の総門と三門、三門と仏殿の間に柏槇らしい樹木が整然と並んで描かれています。
仏殿の左右の出入り口にふくろうの置物をみかけることがあるかもしれません。それは、仏殿の中に雀などの小鳥が入りこんで巣を作ってしまわないよう、見張っているのです。
本尊 地蔵菩薩
仏殿に安置される本尊の地蔵菩薩は寄木造、玉眼入りで坐高が239.5cm、蓮華座を加えると479.5cmになります。禅宗寺院で地蔵菩薩を本尊とするのは珍しいのですが、なぜ建長寺の本尊は地蔵菩薩なのでしょうか。
実は建長寺の創建前のこの地は、地獄谷と言われる刑場であり、その地に刑死したものを救済する地蔵を祀る心平寺という地蔵堂があったのです。その地に建長寺を造営することになったとき、地蔵菩薩を本尊としたものと思われます。この地蔵には「斎田地蔵」という伝承があります(コラム)。
現在の本尊は室町時代の応永21(1414)年に仏殿が焼失した後に作り直されたものですが、法衣垂下の鎌倉彫刻の特色を伝えています。脇壇には鎌倉期の伽藍神像と千手観音坐像、旧心平寺本尊の地蔵菩薩を中心に千体地蔵が安置されていまする。
エピソード 斎田地蔵
まだ源頼朝がいたころ、斎田左衛門という武士が罪をおかして首が切られることになりました。しかし首切り役が何度斬ろうとしても刀が折れてしまいます。不思議に思った役人が、左衛門の頭をしらべると、髪の中から小さな鉄の地蔵が出てきて、地蔵についた傷が刀の傷とぴったり合ったのです。
左衛門が日頃から信仰する地蔵を頭に偲ばせていたので助かったのだでした。頼朝は、左衛門の信心に免じて許し、地蔵は斎田地蔵と言われて地蔵堂に祀られることになりました。
斎田地蔵は後に建長寺がつくられたとき、新たに本尊として造られた地蔵菩薩像の中に納められました。そのご本尊の木造地蔵菩薩は何度か火災に合い無くなってしまいましたが、鉄製の斎田地蔵はそのつど取り出され、今も寺宝として保存されており、11月の風入れのときに公開されます。
エピソード ゴタゴタ云う僧
建長寺第2世には、蘭溪道隆と同じく宋から招かれた兀庵普寧が招かれました。兀庵普寧は建長寺に来ると本尊地蔵菩薩の前で礼拝しようとしませんでした。彼は「菩薩、壇を降って山僧を礼拝すべし」というのです。菩薩は仏の中では如来(釈迦や阿弥陀、薬師など)よりも地位が低く、悟りをひらいた自分は地蔵の前で礼拝する気にはなれない、というのがその理屈でした。
その他、気位の高い兀庵普寧は難しい説法をしたので日本人の僧には何を言っているのか判らず、そこからわけのわからないことをいうのを「ゴタゴタいう」というようになったそうです。
北条時頼はそれでもわざわざ宋から招いた兀庵普寧と熱心に問答して悟りを開き、禅宗に傾倒します。時頼が亡くなると、兀庵普寧は鎌倉に居ても仕方が無いと思ったか、帰国してしまいました。
お江の方の霊廟を拝借
この仏殿は大変に装飾が豊かで、禅宗寺院の仏殿にしてはきらびやかにすぎる、と感じますが、それもそのはず、このお堂は元々の建長寺のものではありませんでした。
江戸時代のはじめ、正保4(1647)年に芝増上寺の二代将軍秀忠夫人崇源院(お江)の霊屋を造り替えたとき、もとの建物を建長寺が譲り受けて移築したものなのです。お江はテレビドラマでも知られた戦国時代の浅井長政の三女で淀君の妹に当たります。
天井や柱、欄間などにはすべて漆塗りが施され、豪華な江戸初期の元禄文化の精髄を伝えていると云えるでしょう。鎌倉で見る江戸文化なのです。地蔵菩薩も何となく照れくさそうに納まっていますね。
法堂
法堂は、本来は建長寺の僧侶全員が集まって住持の上堂説法を聞き、修行の眼目としていたところ、つまり修行の中心の場でした。最盛期には388人の僧侶がいた記録がありますから、このお堂がいっぱいになったでしょう(法堂前の解説板による)。
現在では修行道場は鐘楼を右手に入った西来庵に移ったので、修行の場ではなくなり、解放されています。お堂の本尊は千手観音像で、その手前にあるブロンズ像は修行中の釈迦を描いたもので、パキスタン政府から送られたものだそうです。
現在の建物は、江戸時代の文化11(1814)年に再建されたもので、木造としては関東では最大の規模をもつ建造物です。天井の雲龍図は創建750年を記念して、2003年に日本画家小泉淳作氏が描いたものです。
唐門・方丈・庭園
- 唐門 屋根が唐破風になっている門のことで、この場合は妻入りなので向唐門(平入りなら平唐門)という。桃山風の建物で仏殿と同じく、徳川秀忠夫人崇源院の霊廟の門だった。天皇または勅使を迎える門であるので、通常は閉められている。
- 方丈 関東大震災で倒壊したため、総門と同じく京都般舟三昧院の本堂を移築した。方丈とは元は文字どおり一丈(約3m)四方の小屋のことで、僧侶が生活する庵を意味していたが、寺院建築の規模が大きくなるに従って大型化した。現在では寺院の本堂を意味する場合もある。
- 庭園 方丈の裏にある庭園は蘸碧池という池を中心にした禅宗様式で、蘭溪道隆が作庭したとされる。ただし、実際には江戸期に大きな改築がほどこされている。通常、寺院の庭園は、本堂の前に造られることが多いが、ここでは方丈の裏手に造られ、勝上嶽の峰を借景にしている。池の右手の建物は得月楼という客殿で、こちらも創建750年を記念して池の大改修と合わせて建造された。
塔頭巡り
塔頭というのは、大寺院の中にある独立した小寺院のようなもので、もとはその寺の歴代住持で重きをなしたした僧の墓所-塔所という-をまもる庵だったところを云う。建長寺には最盛期には約50の塔頭があったと言い、現在も10ほどの塔頭があります。
塔頭は修行の場であり僧侶が起居しているところなので、そのほとんどは公開されていません。その門前まで行って、中をのぞかせていただくしかできません。それでもどこもキレイに整えられ、またそれぞれに個性的な庭造りなどしているところもあって目の保養になります。それでは修行の邪魔にならないように気をつけながら、主な塔頭をたずねてみましょう。
西来庵
西来庵は建長寺の中で修行エリアであることから一般観光客が立ち入ることの出来ない、嵩山門の内側にある塔頭で、現在全山の僧の修行道場となっている塔頭です。中でも昭堂は開山堂でもあり、建長寺最古の建物で文化財としても貴重(現在修復工事中)です。また開山堂の後方の山腹には開山大覚禅師(蘭溪道隆)の墓塔が建っていますが、一般のものは立ち入ることが許されていません。
通常はその門前までも行くことはできませんが、4月末の牡丹の時期に嵩山門から西来庵門前までが公開されることがあります。そこにぶつかったらラッキーですね。
主な塔頭をめぐる
回春院と地獄谷
塔頭のなかで最も奥まったところにあり、そして唯一、境内に入ることができるのが回春院です。建武元(1334)年に没した建長寺第21世住持の玉山徳璇(仏覚禅師)の塔所です。境内には大覚池があり、「大亀常に居るという」といわれています。亀ヶ谷の地名のもとになった亀もここに住んでいて、今でも生きていると、信じられています。帰りにもと来た道では無く門の左手の道を通ると、春ならばミツマタの花が咲いているでしょう。
池の脇から右手の山道を登っていくと途中で西御門に抜けることができますが、途中で山道を左にとって登っていくと「朱垂木やぐら」を経て、天園ハイキングコースに出ることができます。
- 地獄谷 池の奥に進む。すると田んぼが残る広い谷に出る。この谷がかつて地獄谷といわれた処刑場で、その一角に伽羅陀山心平寺という寺があり地蔵が祀られていた。建長寺創建に伴い、その地蔵堂を巨福呂坂に遷したが、大正5(1916)年に巨福呂坂新道を拡幅する際に建物は三渓園に遷され、地蔵菩薩像は建長寺仏殿脇壇に安置された。旧心平寺の建物は今も三渓園で見ることができる。
河村瑞賢墓
河村瑞賢(1618~99)は一介の農民に過ぎなかったが、故郷を捨てて江戸に出る途中、明暦の大火(1657)が起こったことを知って、急きょ故郷の伊勢に帰り、材木を買い占めた。大火後に江戸で建築ブームが起き、木材が高値で売れたため、財を築くことができた。この才気を幕府に用いられて、江戸廻米の東廻り航路・西回り航路開拓に当たった。晩年に旗本に取り立てられ河村瑞賢を名乗った。江戸時代に農民の出で苗字帯刀が許された珍しいケース。
日本史の教科書には必ず出てくる人物だが、建長寺にその墓があることは知られていない。また武将や文人でもないので最近はその墓にも訪れる人も無く、ひっそりとしている。最近の建長寺の案内パンフレットにもでてこない。参道もほったらかされている。なお、かつては河村瑞賢墓から尾根つたいに半僧坊まで行けたが、今は危険だと云うことで通れない。
河村瑞賢は紀伊国屋文左衛門とならんで機転一つで運命を切り開いたドラマチックな人物なので、誰かドラマにしてくれないかなあ。大河ドラマの主人公にでもなれば、その墓もキレイに整備されるでしょう。
半僧坊
境内の最奥にある建長寺の鎭守。半僧坊大権現を祀る。その歴史は新しく、明治23年に第235世の管長が静岡県奥山方広寺(臨済宗寺院)から勧請したもの。火除けなどに力のある神で、禅僧の守護神とされた。
急な階段を息を切らせながら上がると、途中に置かれている天狗に尻を叩かれそうだ。この天狗たちは半僧坊大権現のお供でこのお山にやってきて住みついている。翼が付いているから、人間が見ていないときには大空を駆け巡っているのかも知れない。この天狗たちも戦争中は金属類として供出されてしまったのですが、昭和55年に生き返ったそうです。
天狗に励まされながら上りつめたところが半僧坊大権現。今もご祈祷の受付をしており、太鼓の音や呪文の声が聞こえてくる。やっと一休みできますが、自動販売機はないので、飲み水類は忘れないこと。一服したら、眼下の緑の中に建長寺が見え、さらにその向こうには鎌倉の町、相模湾が一望できる。天気が良く、富士山が見えればラッキー。
さらにきつい石段を登って行くと、頂上の勝上嶽で、天園コースに出る。山頂から谷間に静かに建長寺の甍が並び、緑の山並みの向こうに遙かに富士山を望むことができる。
勝上嶽からの眺望
建長寺の行事
節分
毎年、2月3日に行われる節分会では、建長寺でも大々的な豆まきが行われます。その日には、東京浅草の桜川ピン助一座による「かっぽれ」が奉納されるのが恒例となっています。
梶原施餓鬼会
2023年7月15日(土)建長寺三門で行われた「梶原施餓鬼会」を初めて見ることができた。開山の蘭渓道隆が餓鬼道で苦しむ亡者を救済する施餓鬼会を執り行い、無事終わったところに、一人の武士が現れた。武士は施餓鬼会が終わったことを知り、引き上げようとする。蘭渓道隆が武士の戦い疲れた様子を不審に思い、名を問うと「我は梶原景時の亡霊なり」とだけ言うと、忽然と消えた。蘭渓道隆は哀れに思い、施餓鬼会をもう一度執り行って景時の霊を慰めたという。
そのとき以来、建長寺では毎年7月15日の施餓鬼会の後に、梶原景時を慰める施餓鬼会を執り行ってきた。かつては午前の施餓鬼会と午後の梶原施餓鬼会を分けて行っていたが、現在では日付は同じく7月15日、朝8時から9時までの間に二つの施餓鬼会を引き続き実施している。
当日は誰でも施餓鬼会を見ることができる。一般観光客で賑やかになる9時前に、管長をはじめとする全山とおそらく各地の建長寺派の僧が集まり、施餓鬼会が行われる。建長寺の鎌倉時代からの興味深い行事を見ることができ、充実した一日となった。
梶原施餓鬼会は9時頃、終了。
お坊さん方も記念品をいただきながら解散した。
おそらく各地の建長寺派の寺院から
招集されたのだろう。
それにしても僧たちの野太い声で唱和するお経はすばらしかった。
読経には音楽的要素がある。
夏の朝、すがすがしい気分に満たされた。
9時すぎ、観光の外国人の人たちも入ってくる。
日本人の観光客も、何をやってたんですか?
といぶかしげに通り過ぎていった。
梶原景時は相反する評価があるが、幕府草創期の最も興味深い人物であることには違いない。その霊は果たしてどうなったのだろうか。