鎌倉宮

大塔宮護良親王を祀る

 鎌倉幕府を倒し、建武の中興を行った後醍醐天皇を助け、非業の最期を遂げたその皇子の護良親王を祀るために、明治天皇の勅命で1869(明治2)年に創建されたのが鎌倉宮です。つまり、鎌倉宮は江戸時代までは存在していなかった、新しく作られた神社です。
 鎌倉宮になる前は、東光寺という寺院でしたが、鎌倉幕府滅亡の時に、反幕府の急先鋒であった後醍醐天皇の皇子、護良親王が幕府によって捕らえられ、この寺の土牢に入れられたという伝承がありました。明治維新後、東光寺は取り壊されて廃寺となり、その地に明治天皇の指示によって護良親王を祀る神社が作られたのです。金沢街道の岐れ道から一直線に鎌倉宮に向かう道路も、そのとき新しく作られたものです。
 近くにはその護良親王の墓所とされる理知光寺跡もありますので一緒に訪ねましょう。

 交通 鎌倉駅前 京急バス 大塔の宮行きバス終点
 ホームページ 鎌倉宮(公式ホームページ) (kamakuraguu.jp)

大塔の宮のバス停を降りると、左手に大きな石碑があります。これは「弘法大師八十八カ所道」で覚園寺の裏山にあった弘法大師霊場への道標です。

鎌倉宮の境内

 印象的な白い鳥居をくぐって境内に入ります。まず広々とした平場がありますが、ここが秋の恒例の鎌倉薪能が行われるところです。右手に大きな休憩所や社務所があります。
 もう一段上に鳥居があり、そこを上がると本殿です。本殿の左右に摂社として、親王に仕えた侍女南方みなみのかたを祀る南方社、親王の身代わりとなって自刃した村上義光よしてるを祀る村上社があります。境内のオガタマノキは市の天然記念物です。
 本殿の左手に護良親王の土牢や宝物館、神苑への入り口があります。

護良親王とは

  • 大塔宮から護良親王へ 護良親王(「もりなが」というのが一般的でしたが、歴史学者の中では「もりよし」とする説が有力になっています)は鎌倉幕府倒幕に立ち上がった後醍醐天皇の皇子で、11歳で僧籍に入り延暦寺の大塔おおとうで修業したので「大塔宮(「おおとうのみや」が正しいが、地元では「だいとうのみや」とも呼んでいます)」と言われています。20歳で天台座主ざすとなり、1331(元弘元)年の後醍醐天皇の挙兵に加わりましたが、失敗して後醍醐は隠岐に流されました(元弘の変)。大塔宮は還俗して護良と名を改めました。
  • 護良親王の挙兵 1333年、護良親王は楠木正成らと挙兵、鎌倉方であった足利尊氏・新田義貞らが呼応しました(正中の変)。まず新田義貞が鎌倉に攻め入って、幕府を滅ぼし、後醍醐天皇の建武の新政が始まりました。護良親王は征夷大将軍に任命されましたが、後醍醐天皇は公家本位の政治を復帰させ、足利尊氏ら武士を冷遇したため、尊氏らが反発して対立が始まりました。

護良親王の土牢

護良親王土牢

 土牢の前にある説明板には、護良親王御土牢 二段岩窟 建武元年十一月より翌年七月二十三日迄約九ヶ月の間ここに御幽居し給う。薨去の御年 二十八、深さ約四メートル、広さ八畳敷 などと書かれています。ここがほんとうに護良親王が幽閉された土牢なのでしょうか。

  • 護良親王の土牢 足利尊氏は護良親王を捕らえて鎌倉に送り、当時は東光寺という寺院だったこの地の一角に幽閉されたことは確かです。太平記には「建武元年、宮を直義朝臣の方へ渡されければ、数百騎の軍勢を以て、路地を警護し、鎌倉へ下し奉りて、二階堂の谷に土牢を塗てぞ置進めらせける」とあります。この土牢とは、岩窟ではなく、土壁を塗り巡らした座敷牢だったという説もあります。
  • 護良親王の最後 鎌倉を預かっていた足利直義ただよし(尊氏の弟)は、1335(建武2)年、北条時行が反乱を起こすと、親王が奪還されることを恐れ、淵辺ふちのべ義博に命じて殺害しました。28歳の生涯を終えた親王の恐ろしい死に顔に驚いた義博は藪の中にその首を捨ててしまい、あわてて逃げたと言います。その場所が社殿の右奥にある御構廟おかまえどころ(御首塚)だと言われています。
護良親王終焉の地
日賢律師の多宝塔

鎌倉宮の行事

節分祭

2017/2/3

護良親王の墓所

護良親王の墓

 護良親王の首級はどさくさで藪に棄てられましたが、近くの理智光寺の僧が見つけ、境内の山中に埋葬しました。それが現在の護良親王の墓とされています。鎌倉宮の東方、二階堂川を渡り、理智光寺谷の住宅街の山裾にその墓があります。急な石段は明治初年の鎌倉宮が造営されたときに整備されたました。
長い石段を上り詰めたところがその墓とされていますが、汗を流して登り切っても、現在は宮内庁が管理していて最上段の墓域には入れません。
 今では訪れる人も少なく、ごく静かなところです。体力があったら、ぜひ石段を登り、最上段まで行ってみましょう。

2016/12/28

階段の下り。転げ落ちないように、慎重に下りましょう。訪ねた日、2016年12月28日

理智光寺跡

 理智光寺は今は無く、護良親王の墓の入口前に跡碑があるのみです。いまでは住宅地になっている谷間が寺域であったようで、明治の初めまでは存在しました。石碑には「此所は願行上人を開山とせし五峰山理智光寺の址なり」とありますが、その宗派などの詳細はほとんど分かっていません。鎌倉でにはこのような廃寺が多いのです。

 水戸黄門こと水戸光圀が編纂した『新編鎌倉志』に江戸時代初期の東光寺と理智光寺の様子を伝えています。
 東光寺の裏山に「大塔宮土牢」、理智光寺の裏山に「大塔宮石塔」とあります。土牢と石塔の位置はここだったことが判ります。

  • もう一つの護良親王の墓 大町の妙法寺(苔の石段で有名なお寺)の裏山に護良親王墓と言われるところがあります。これは妙法寺の中興日叡上人が護良親王の子であったので、日叡商人がその供養のために建てたものです。
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