覚園寺

2018/1/7

覚園寺 谷戸の奥の仏像

 鎌倉宮の左手の谷戸を薬師堂ヶ谷といい、その奥まったところにあるのが覚園寺です。鎌倉幕府第9代執権北条貞時(時宗の子)の時に創建された古刹で、現在は真言宗に属しますが、長く真言・律・禅・浄土の四宗兼学の寺院として、仏教教学の研鑽の場でした。明治政府が一寺院一宗派として寺院を統制しようとしたときに、真言宗に属すとされたのです。

  • 宗派 古義真言宗泉涌せんにゅう寺派
  • 山号 鷲峰じゅぶ山 
  • 本尊 薬師如来
  • 開山 智海心慧しんえ律師 
  • 開基 北条貞時
  • 創建 永仁4(1296)年

交通 鎌倉駅から京急バス 鎌倉宮行き 終点下車 徒歩10分
ホームページ 覚園寺  電話 0467-22-1195
拝観 拝観料 大人500円 小中学生200円
コロナ前は一日で時間を決め案内人が案内する形態でしたが、現在は随時拝観ができるようになっています。拝観時間 10時~16時。

2015/2/23
2015/2/23

境内

2016/11/30
2018/12/2

愛染堂

 愛染あいぜん堂は、もと覚園寺の南にあって、明治維新で廃寺となった大楽寺だいらくじの本堂を移築したもので、その仏様たちも大楽寺からの「客仏」です。
 中央は愛染明王、右に不動明王、左に阿閦あしゅく如来。いずれも鎌倉期の仏様たちです。不動明王は大楽寺の開山の願行がんぎょう上人が、大山寺おおやまでら(伊勢原)の不動明王を作る前の試作品として造ったという言い伝えがあり、「試みの不動」といわれていますが、全国的にも珍しい鉄造の仏像で貴重です。

薬師堂

2018/1/7

 現在の薬師堂は1354年、足利尊氏によって再建され、江戸時代の元禄年間に修理されましたが、基本的には南北朝時代の建物を継承しており、貴重です。円覚寺の舎利殿と同じ時期で、急勾配の屋根(四方に流れる四柱造しちゅうづくりの茅葺き)、花頭窓かとうまど桟唐戸さんからとなど禅宗様式(宋朝様式)の特徴も見られます。梁の上の詰組は斗と肘木が精密に組み合わされ、天井には狩野派の竜図が描かれています。そして、梁に足利尊氏の署名が見られ、再建当時のものであることが分かります。
 堂内は、本尊の薬師如来を中心に、両脇侍(日光・月光の両菩薩)、左右の十二神将、右手奥の阿弥陀如来(通称鞘阿弥陀)、開山心慧像や伽藍神像など、鎌倉・室町の仏像世界が濃縮された空間となっています。

薬師三尊像

覚園寺 訳詞三尊像

 薬師三尊像の中尊、薬師如来は両手の上に薬壺やっこを持ち、左右の日光菩薩・月光菩薩とともに法衣を長く蓮華座に垂れている法衣垂下ほうえすいか式という鎌倉の仏像の特徴を最もよく表しています。
 『吾妻鏡』によれば薬師三尊や十二神将は仏師運慶が造ったとありますが、残念ながら度重なる火災でそれは焼けてしまいました。現在の三尊像は後に修復されたものですが、運慶様式を伝える貴重な仏像であることは確かです。

十二神将像

 薬師如来の守護である十二神将は、昼夜を12時に分けてかわるがわる守護の任につくので、それぞれ十二支を別称として持っており、頭の上にそれらの動物を乗せています(ただし、神将名と十二支の組合せは諸説あって一定ではありません)。覚園寺の十二神将は、室町時代の応永年間に仏師朝祐ちょうゆう(日光、月光と同じ)が、一年に一体ずつ造ったことが銘文でわかります。鎌倉時代に製作された辻薬師堂(現在は鎌倉国宝館蔵)の十二神将などの影響も考えられています。十二神将では奈良の新薬師寺、興福寺、広隆寺のものが有名ですが、鎌倉ではこの覚園寺と辻薬師旧蔵のものがあります。

阿弥陀如来像(鞘阿弥陀)

鞘阿弥陀

 薬師堂の本尊の右手に置かれているのは、二階堂にあって現在は廃寺となっている理智光寺の本尊であった阿弥陀如来像です。
 この像の胎内にもう一体の仏像を納めているので鞘阿弥陀ともいわれています。
 理智光寺は護良親王墓のある谷にあった寺で、やはり明治維新で廃寺となり、本尊は客仏として覚園寺に迎えられました。
 この像には鎌倉仏像彫刻の特徴である土紋が見られます。また、作家川端康成が気に入っていた仏像だと言われています。

土紋

黒地蔵

覚園寺 黒地蔵

 薬師堂の拝観が終わり、右手の道を戻ると地蔵堂があります。扁額には「無尽蔵」とあります。この地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像は、俗に「黒地蔵」といわれており、近隣では有名なお地蔵様です。
 このお地蔵様が真っ黒なのは、みずから地獄の獄卒にかわって火を焚き、罪人の苦をやわらげたため黒くいぶされていると伝えられているからで、火焚き地蔵ともいわれます。張りのある意志的な面差し、運慶風のものものしい衣のヒダ。この鎌倉時代の地蔵の優品のひとつと言えるでしょう。毎年8月10日には「黒地蔵のお盆」には多くの信者が集まります。

その他の見所

  • 十三仏 地蔵堂の右手にぽっかりと大きな口を開けている洞窟の中には岩壁をくりぬいて十三の仏が安置されています。十三仏とは、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿閦・大日・虚空蔵をいいます。
  • 旧内海家住宅 この建物は鎌倉近郊の手広にあった名主級の豪農内海家の住居で、江戸中期の1706(宝永3)年に建築されたものです。解体されることになったのですが、覚園寺の住職がそれを惜しみ、1981(昭和56)年にここに移築しました。

非公開の文化財

  • 棟立の井 棟立むねたての井は、薬師堂の奥の左手の山際にあり、伝承では弘法大師がこの地に滞在したときに掘ったという横井戸で、棟型の石で覆っているのでこの名があります。鎌倉十井のひとつに数えられていますが、背後の山が崩れる恐るということで、残念ながら現在は公開されていません。 → タグ 十井
  • 心慧塔と大燈塔 薬師堂ヶ谷の最も奥まった墓地のそのまた奥の杉木立のなかに、宝篋印塔ほうきょういんとうが二基立っており、その周りを歴代住職の墓である12基の無縫塔むほうとうが取り囲んでいます。巨大な宝篋印塔の右は開山の心慧律師、左が二代目の大燈律師の供養塔で、二基とも1332年(鎌倉幕府滅亡の前年)に作られました。鎌倉時代の宝篋印塔としては最大級で、江戸時代には頼朝と政子の墓ともいわれていましたが、調査の結果それは誤伝であると判りました。貴重な文化遺産ですが、墓地の中にあるので、公開されていません。

覚園寺 ところどころ

大楽寺廃寺

 円覚寺からの帰り道、注意しながら右手を見ていくと、覚園寺駐車場入り口の看板があります。そこを入って行き、駐車場になっている谷戸が、大楽寺の廃寺のあったところです。大楽寺はもとは覚園寺開山の心慧の師で後に京都の泉涌寺6世となった願行上人が、浄明寺の東の胡桃くるみヶ谷に創建した寺でしたが、1429(永享元)年に鎌倉公方足利持氏が起こした永享の乱で永安寺ようあんじ(瑞泉寺の手前にありました)が焼けたとき、山を越えた火で延焼してしまったため、覚園寺の南の谷に移転しました。その後江戸時代まで続いたことは『新編鎌倉志』でわかりますが、明治4年、廃仏毀釈で廃寺となり、本堂は覚園寺に移されて現在の愛染堂とされ、本尊の鉄不動や阿閦如来などの仏像も今は覚園寺愛染堂に保管されています。現在、覚園寺の駐車場となっており、その背後の谷の奥の小高い平場が、かつての堂宇のあったところと思われます。

覚園寺の歴史

北条義時と薬師堂

 覚園寺の前身は、北条義時が1218(建保6)年に建てた大倉薬師堂といわれています。この年は源実朝が公暁に殺される前の年にあたります。この年の7月8日に将軍実朝に従って鶴岡八幡宮に参拝した義時が、帰宅後寝ていると夢の中で薬師の十二神将のなかの戌神が枕もとに現れ、来年の将軍の鶴岡参拝には供奉してはいけないと告げました。目が覚めてみると戌の刻(午後八時)でした。不思議に思った義時は翌日思い立って大倉薬師堂を創建しました。
 そして翌年正月の将軍源実朝の鶴岡参拝の時、本来なら太刀持ちとして供奉しなければならなかった義時は、病と称して太刀を代わりの中原仲章に持たせ退席しました。その直後、頼家の遺児の公暁が実朝を襲い、さらに太刀持ちの中原仲章を義時と思い込んで殺害する事件がおこったのです。難を逃れた義時は、戌神のお告げの通りになったことを感謝し、薬師堂への信仰を篤くしました。
 このあたりはNHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』でも描かれていましたから、ご覧になった方も多いでしょう。このドラマチックな出来事は『吾妻鏡』に書かれていることですが、この歴史書は後に北条氏の立場で書かれたものですから、割引して読まなければならないようです。真相は分からないとしても、北条義時が創建した大倉薬師堂が現在の覚園寺の前身であることは確かで、薬師堂の十二神将には戌神もいます。そのような歴史の逸話の知ったうえで参拝すると感興も一入ひとしおですね。

北条貞時の創建

 北条義時の大倉薬師堂が火災で焼亡したのち、1296(永仁4)年、執権貞時はそこに「蒙古襲来の難を避けるため」覚園寺を創建しました。第二回の元寇(弘安の役)はすでに1281年に終わっているので、今から見ると遅すぎるように思いますが、実は元のフビライ=ハンは第三回の日本遠征を計画していたのです。それを知った鎌倉幕府は厳戒態勢を続けており、モンゴル軍退散の祈願も盛んに行っていました。ところが元で内乱が起こって計画は延期され、そのうちフビライが1294年に亡くなっていたため、第三回の日本遠征は実行されることはありませんでした。

足利尊氏の再建

 覚園寺は鎌倉幕府の手篤い保護を受けていましたので幕府の滅亡は大きな痛手でした。しかし、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇も、またその次に実権を握った足利尊氏も覚園寺を当時の最高の学問の寺として保護しました。特に足利尊氏は、覚園寺が1337(建武4)年に火災にあったのち、1354(文和3)年にみずから命じて再建しました。その時、尊氏が自ら筆を執った梁牌を薬師堂の天井に今も見ることができます。

薬師堂天井の梁に注目

江戸時代の覚園寺

 江戸時代の初め、徳川光圀(講談で有名な水戸光圀)が鎌倉の諸寺社を絵入りで案内する書物『新編鎌倉志』を作りました。それによると、覚園寺を取り囲む自然の森林は今より広く、大門は今より南にあったことが分かります。それは現在、庚申塔があってハイキングコース入口になっているところでした。そしてそのすぐ左手に今は廃寺となった大楽寺があったことがわかります。

『新編鎌倉志』覚園寺の図
覚園寺 (1965年)
井上章著。中央公論美術出版、美術文化シリーズの一冊。古い本だが、写真が多く、覚園寺の仏像、歴史、裏山の百八やぐらなどを知るには最適な小著。
史伝 北条義時: 武家政権を確立した権力者の実像
小学館
2021年刊。山本みなみ著。最新の研究を盛り込んだ、『鎌倉殿の13人』の主要人物北条義時の評伝。吾妻鏡の伝える実朝暗殺事件と北条義時の関係の真相に迫る。
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