十二所の村社
十二所神社は、1278(弘安元)年に創建された光触寺の境内に勧請された熊野権現がそのはじまりで、1838(天保9)年に現在地に移転し、明王院の管理となり、明治維新の神仏分離令で十二所神社と改称され、村社となりました。現在は国之常立神以下の天神七代、天照大神以下の地神五代を合わせた十二代の神々を祀っているとされています。
十二所という地名も、この十二所神社からきています。よみかたは地元でも「じゅうにそ」でいっています。所は「しょ」や「そう」ではありません。
- 祭神 天神七社・地神5社
- 創建の詳細は不明であるが、鎌倉時代中期に光触寺が建てられたとき、境内に鎮守として熊野権現を勧請した小祠が前身と考えられている。
交通 鎌倉駅前から京急バス、鎌倉霊園、大刀洗、金沢八景行きで約20分、十二所神社前下車。
社殿と境内

立派な石灯籠


バス停をおり、赤い帽子をつけた地蔵さんのところを左に入ると参道で、山の緑を背にした十二所神社が見えてきます。
このあたりは、現在は鎌倉の東の最も奥に当たり、様子も中心部とかなり違い、山間の小さな村といった雰囲気があります。
神社の登る石段の両脇には立派な石灯籠があります。かなり古そうですが、バランスの良くとれた石灯籠です。
石段を上がると小ぶりな鳥居があります。1862(文久2)年といいますから、幕末のものです。
波乗り兎のいる社殿

正面の本殿には、「波に兎」や「獅子」の見事な彫刻の施されており、見る価値があります。


「浪に兎」つまり「波乗り兎」は各地の神社の彫り物によく見られます。そのなかでもこの十二所神社の波乗り兎はそのダイナミックな動きと繊細な表現で、天下一品ではないでしょうか。
波乗り兎がなぜ神社建築に使われるのか、まだ知識がありませんが、一説には火よけのまじないという説もあります。この近くでは葉山の森戸神社の灯籠でも見られます。卯年にはよく年賀状のデザインに使われますね。最近ではサーファーの間で人気があるそうです。


中世以降の寺社建築で、横木が柱から突き出た部分に飾りの彫刻を施したものを「木鼻」といいます。この例のような獅子の他に象や莫などの動物の頭を彫刻することが多い。名も無き宮大工の技術には感心させられます。

社殿正面の扁額。
「十二所神社」とあります。
境内の小社
社殿の他に、右手に山の神・疱瘡神・宇佐八幡、左手に地主神の小さな祠が見られます。ゆっくりお詣りしましょう。


十二社神社は山を削って平場を造り、そこに造営されています。社殿の右手には「山の神」の小社。その右の切り岸(崖)の岩肌を切り抜いた穴に小さな石の祠が二つ。
いかにも古びた祠で、十二所の村人の信仰がしのばれます。ひとつは「疱瘡神」で疱瘡(天然痘)をよける願いが込められています。もう一つは宇佐八幡宮を勧請したもののようです。
鳥居の左手には地主神の小社があります。

十二所神社のルーツ
十二所神社は、近くの時宗の寺院、光触寺と深い関係があります。光触寺は時宗の寺院で、時宗といえば一遍上人が始めた鎌倉仏教の宗派です。当時はまだ本地垂迹説という神仏混淆の思想が一般的でしたから、一遍上人も仏教に帰依しながら、深い熊野信仰を持っていました。新しい宗派を造り、旧仏教側や鎌倉幕府から妨害されても、全国に教えを拡げようとしたのも熊野の神々の力に守られていると信じていたからでした。
・一遍の熊野信仰 一遍上人は1274(文永11)年に熊野に参詣し、熊野権現から神託を授かり、他力念仏の本意を会得したと言われているのです。熊野には本宮・新宮・那智の三山があり、まとめて熊野三所権現と言われていましたが、平安時代末に眷属神(一族の神々)9社が加えられ、それらの十二社の神々を「熊野十二所権現」といわれるようになりました。本地垂迹説の考えで日本の神々は仏教の諸仏が姿を変えて仮に姿を現しているとされており、権現の「権」とは「仮に」を意味しています。権現とは仏様が仮に神々の姿で現れた、ということになります。
・熊野十二所権現 このように一遍上人と熊野信仰は深い関係がありましたから、各地の時宗の寺院には熊野の神々を守り神として境内に社を建てることが多かったのです。このように十二所とは、本来、熊野の十二社のことだったのであり、江戸時代に管轄が光触寺から明王院に代わってからも「熊野十二所権現」といわれていました。そこからこの付近を江戸時代初め頃から「十二所」というようになったようです。
・明治維新で変化 ところが明治維新となり、明治政府が神仏分離令を出すと、神社は寺院の管轄から離れなければならなくなり、そのとき「十二所」の名前から新たに祭神を天神七柱(国之常立神以下七柱)と地神五柱(天照大神以下五柱)を合わせた十二柱の神々が祭神とされたのでした。現在の祭神は明治になってから定められたもので、それ以前は熊野の十二所の神々をまつる神社だった、ということですね。
巡礼供養の石地蔵

十二所神社バス停の近くにいつも赤い前掛けと頭巾を着せてもらっている石の地蔵様がおられます。台座には、正面に弘化二(1845)年、左面に文政十一(1828)年の年号とそれぞれ名前が彫られています。
この地蔵は、むかしこの地で亡くなった巡礼(六部)を供養するために村人が建てたものと言います。昔からここが旅人の多い所だったことがわかり、また村人の旅人に対する優しい心が伝わってきます。
