北鎌倉・扇ヶ谷にある、鎌倉五山第三位の禅寺。この地は源頼朝の鎌倉入りより前から源氏との関わりが深く、源氏山の麓に当たる。北条政子、頼家、実朝ともゆかりが深く、開山は臨済宗を日本に伝えた栄西。鎌倉で最も重要な古刹です。
鎌倉五山第三位の禅寺
- 山号 亀谷山
- 寺号 寿福金剛禅寺
- 開山 明庵栄西
- 開基は源頼家(実は北条政子)
- 創建 正治2年(1200年)
- 宗派 臨済宗建長寺派
- 鎌倉五山の第三位。
- 〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17−7
- ℡受付、御朱印は無し。
- 鎌倉駅より徒歩10分ほど。駐車場無し。
- 拝観は総門から三門まで。境内は非公開。墓所は参観自由。
総門から三門へ
寿福寺のある地は、もともとは源頼朝の父源義朝の亭跡であったところでした。1180年に鎌倉に入った源頼朝ははじめこの地に幕府を開こうとしましたが、すでに義朝を祀るお堂が建てられており、狭かったので大倉の地(鶴岡八幡宮の東側)に移りました。
寿福寺の創建
源頼朝死去の翌年の正治2(1200)年、北条政子は宋から帰国して臨済宗を伝えた明庵栄西にこの地を寄進し、寺院を建立しました。それが寿福寺です。正式な開基は時の第二代将軍、源頼家でしたが、実際には政子の主導で建造されました。
境内は非公開なので、三門から見ることしかできない。正面の本堂に、ご本尊の釈迦如来像その他の仏像が安置されているが、拝観はできない。
三門左手の脇道を辿り、裏山の墓地に向かいましょう。かつては寺域であったであろう個人宅の間を通り、墓地に入っていく。
寿福寺墓所
政子と実朝の墓
寿福寺墓地には山際にやぐら群があり、その中に政子の墓・実朝の墓と伝えられる五輪塔が納められています。この五輪塔二基は、鎌倉末期から南北朝時代初期のものであり、二人の墓そのものとは言えません。二人とも大御堂と言われた勝長寿院に葬られました。しかし、勝長寿院が廃寺になってしまい、おそらく政子と実朝の供養のために作られた寿福寺の石塔が墓と言われるようになったのでしょう。
源実朝の五輪塔のあるやぐらははいることができます。入ってみると天井に彩色した跡がみえます。今はほとんどはげ落ちてていますが、唐草模様が描かれているため、昔から「唐草やぐら」とか「絵かきやぐら」ともいわれていました。もともとは実朝のための墓としてつくられたのではなく、後に供養のためにこの五輪塔が収められたと思われます。
墓地のそこここ
寿福寺の墓地には、作家の大佛次郎、俳人の高浜虚子とその娘の星野立子、弟子の森田愛子などの墓があります。また現在は通行できない墓域には、明治の政治家陸奥宗光などの墓があります。
コラム 高浜虚子の愛弟子の墓
高浜虚子(1874~1959)の墓の真向かいは娘の俳人星野立子(1903~1984)の墓があります。実は虚子には愛した女流俳人の弟子がありました。森田愛子は、1917年に福井県三国に生まれ東京の実践女学校で学び、鎌倉で結核の療養をするうち俳句をはじめ、高浜虚子の教えを受けるようになりました。薄命な女性で1947年、29歳で亡くなりましたが、虚子は愛子の才能を認め、それ以上の感情を持ったようです。それは
虹たちて忽ち君の在る如し
と詠んだ句にも顕れています。愛子はなくなる直前に電報で次の句を虚子に送ったそうです。
虹消えて既に無けれど在るごとし
さてその森田愛子の墓も寿福寺の虚子の墓の近くにあります。ほかの墓石と違う向きで、虚子の墓に向かって建てられているので見つけることができますが、くれぐれもほかのお墓にも失礼の無いように静かに彼女の墓を探し、手を合わせてください。
寿福寺の歴史
栄西と寿福寺
明庵栄西(ようさいともよむ。1141~1215)は備中に生まれ、14歳で出家して比叡山に学び、その後備前の寺で修業し、密教を身につけました。また戒律にも通じました。28歳の時中国(当時は宋)に渡り、さらに47歳から51歳まで宋に滞在、そのときシャカの遺跡を訪ねてインドに渡ろうとしましたが果たせなかったそうです。
そのかわり、天台山ではじめて深く禅宗を学び、建久2年(1191)に帰国し、九州で布教した後、6年に京都に入り禅宗をはじめて日本に伝えました。しかし旧仏教の比叡山に迫害され、新天地を求めて正治元年(1199)、59歳の時鎌倉を訪れました。鎌倉に迎えられた栄西は、頼朝供養の法事の導師などを務め、政子の帰依を受けて寿福寺の開山となったのです。
この像は寿福寺像の栄西像です。その特徴的な頭が目を引きますが、これは誇張ではなく、本当にこういう形だったそうです。現在は鎌倉国宝館に所蔵されており、いつでも見ることができます。
・旧仏教との関係 この時期の栄西は、まだ禅宗としての独自性は薄く、密教的な仏事を執り行っていたようですが、建仁2年に将軍頼家から土地を寄進され、京都に建仁寺を開き、それ以後鎌倉と京都を往復するようになり、建保3年に鎌倉で死去しました。旧仏教の比叡山延暦寺からの批判に対しては、『興禅護国論』を著して反論しています。
コラム 栄西と茶
『吾妻鏡』建保2(1214)年の条には、二日酔いに苦しんでいた将軍実朝のもとに加持にやってきた栄西が、茶を服用させ、あわせてその「茶徳」(茶の効用)を説いた書物を献呈し、その効果があったので実朝が大いに喜んだという記事があります。彼が坐禅の余暇に書いたというその書が『喫茶養生記』でした。当時中国で薬用として飲まれていた茶をはじめて日本に伝えたのが栄西だったのです。
鎌倉五山第三位
寿福寺は創建後、源頼家・実朝の二代にわたる将軍の崇拝を受け、住僧には退耕行勇、円爾弁円など優れた禅僧が活躍し、後の蘭溪道隆(建長寺の開山)や無学祖元(円覚寺開山)、夢窓疎石(瑞泉寺開山)ら、臨済禅の隆盛のさきがけとなりました。はじめは純粋な禅寺ではなかった寿福寺も、次第に禅寺としての存在を強めていきました。
源氏の直系が絶え、北条氏政権下では衰退に向かったようですが、それでも源氏創建という禅宗寺院としては格式が高かったので、足利尊氏が定めた五山の制度では、建長・円覚についで鎌倉五山の第三位とされました。
室町時代には多くの塔頭を有する大寺院でしたが、たびたびの火災にあい、現在は本堂と山門、背後の墓地のやぐら群を残すのみです。
寿福寺の仏像
寿福寺の本尊は釈迦三尊像です。鎌倉には珍しい乾漆像の仏像です。ほかに地蔵菩薩像や、もとは鶴岡八幡宮寺の仁王門に置かれていた仁王像など貴重な仏像が安置されています。残念ながら公開されておりません。
寿福寺墓地からの帰り道
寿福寺墓地の石段を降りてまっすぐ進むと、右手に岩をくりぬいた洞門に出ます。この洞門を抜ければ、扇ヶ谷の閑静な住宅街を通り、鎌倉駅への近道となります。
この洞門の手前には、源氏山ハイキングコースに続く急な山道の登り口があります。また洞門をくぐらず、寿福寺の山門に戻る途中には、かつて詩人の中原中也が住んでいたそうです。