常楽寺は鎌倉の旧市内から離れた大船にあるので、あまり知られていませんが、日本の禅宗の歴史のなかでは見逃すことのできない、重要な寺院の一つです。北条泰時、時頼、蘭溪道隆らとの関わりが深く、近くには木曽義高(義仲の子)もあって、ぜひ訪ねたいお寺です。今も市街地と思えない静寂に包まれた、独特の雰囲気を残しています。
常楽寺に行こう
- 宗派 臨済宗建長寺派
- 山号 粟船山
- 建立 1237(嘉禎3)年
- 開山 退耕行勇
- 開基 北条泰時
- 本尊 阿弥陀如来像
ルート 大船駅 東口からバス(神奈中)で5分 常楽寺下車(駅から徒歩15分)
観覧自由 駐車場はナシ
境内の案内
バス停常楽寺からやゝ大船寄りに戻ると、松の木を目印にして、そのもとに常楽寺の石標があります。そこを右手に入ると、常楽寺の萱葺きの山門が見えてきます。
山門の向こう側にはこんもりとした小山が見えます。それが粟船山で、大昔、この辺りが入り江であって粟を積んだ船がこのあたりまで入ってきて荷を降ろしたことから、粟船という地名になり、現在の常楽寺の山号もそれにちなんでいます。
その粟船がやがて「大船」に転化したといいます。現在の大船駅周辺もかつては入り江の中でした。おそらく平安時代頃まで入り江だった所が陸地になり、現在の常楽寺のある辺りが大船村の中心地でした。
山門
「粟船山」の扁額のかかる立派な茅葺きの四脚門である山門は、江戸初期の1661(万治4)年の建造。2014年、屋根を葺き替え、一新しました。
山門をくぐると、広くはありませんが、静かな境内。まっすぐ仏殿に向かっています。仏殿の前の銀杏は蘭溪道隆のお手植えであったものが、大正6年の台風で傾き、同12年の関東大震災でさらに傾き、昭和13年8月13日夜半の暴風雨でついに倒壊してしまいました。いま、残った幹の周りから新たな銀杏がたくさん育っています。
仏殿
本尊の阿弥陀三尊、蘭溪道隆像(室町期の作)などを安置する仏殿は、質素ながら趣の深いものがあります。1691(元禄4)年に再建された、小さいながら関東地方の近世禅宗寺院建築の代表例で県の重文に指定されています。禅宗様式で土間であることに注目して下さい。天井には狩野雪信筆の力強い『雲龍』図が描かれています。
阿弥陀三尊像 阿弥陀如来坐像と観音菩薩、勢至菩薩の両脇侍の三尊は、室町時代の作。禅宗寺院で阿弥陀如来を本尊とするのはめずらしいですが、これは開基北条泰時が浄土宗に帰依していたことによります。三尊の作者は未詳ですが、穏やかなお顔を拝することができます。仏殿の扉は何時も開いており、仏様をお参りすることが出来ます。
2018/4/24 この時は両脇侍が修理中でした。右手に蘭溪道隆像が見えます。
エピソード 仏殿の白眼龍 仏殿の天井の雲龍には不思議な伝説があります。あるとき住職が夜な夜な仏殿の脇の池で何ものかが池の水を飲む音が聞こえるので不思議に思い、起きてみたところ、仏殿天井の龍が抜け出て、池の水を飲んでいました。気味が悪くなった住職は、絵師に頼んで天井の龍の目を白く塗ってしまいました。すると次の晩から池で水を飲む音がしなくなったそうです。この雲龍図の目が白いのはそのためだそうで、暗い天井でも目をこらしてみると白い眼が見えると言います。本尊に手を合わせてから、ゆっくり天井を見て下さい。はたしてみえるかな?
文殊堂
仏殿の左にある文殊堂は、文殊菩薩をお祀りするお堂です。この木造文殊菩薩坐像は神奈川県指定文化財で鎌倉時代の作ですが、伝承では蘭溪道隆が宋から首だけを持ってきて、自ら身体を継ぎ足したといいます。貴重な仏様として秘仏とされていますが、毎年1月25日の一度だけ開帳されます。この日は建長寺がらも山僧が集まって読経し、文殊菩薩は知恵の深い仏様なので、近郷近在から子供たちがお参りし、学業の成就を祈っています。2020年から2023年はコロナのために非公開でした。
色天無熱池
仏殿の右手に禅宗様の庭園と色天無熱池があります。色天とは欲界のよごれを離れた清浄な世界という意味であり、無熱池とは徳が最も優れているとされる龍王が住み、炎熱の苦しみのない池のことをいいます。乙護童子が蘭溪道隆の衣類をこの池で洗い、空中に投じると、物干し竿に懸かったように空中に留まり、かわいたという伝説があります。
エピソード 蘭溪道隆と乙護童子
常楽寺での蘭溪道隆の説法がたいへん評判になっていると聞いた江の島の弁財天は、ひとつこの禅僧を困らせてやろうといたずら心を起こしました。そこで、蘭溪道隆の身の回りの世話をしていた乙護童子を美女に変身させました。己の姿が美女に変わったことを知らぬ童子はいつものように道隆の世話をしていましたが、土地の人は道隆が美女を侍らせていると非難するようになりました。悩んだ童子は身の潔白を示そうとにわかに白蛇に変身し、仏殿前の大銀杏に七回り半巻きつき、その尾で仏殿の隣にある色天無熱池をたたいたといいます。元の姿に戻った乙護童子はその後も蘭溪道隆の側にに仕えました。今も常楽寺や建長寺にはかわいらしい乙護童子の小像が残されています。
北条泰時の墓
仏殿の裏手の墓地に開基の北条泰時と縁の禅僧大応国師(南浦紹明)らの墓があります。古い絵図によると、泰時墓はもとは五輪塔であったようですが、現在はいろいろな種類の石塔の部品を重ねたものとなっています。泰時は執権としての連日の激務に赤痢を併発して1242(仁治3)年6月15日に亡くなりました。辞世の歌は次のようなものです。
こと繁き世の習いこそものうけれ 花の散るらん春も知られず
享保3年の庚申供養塔
境内のどこかに、この写真のような面白い庚申塔(道標)があります。
さがしてみましょう。
これは道標を兼ねた庚申供養塔で、四角柱の上にうずくまっているのは、一匹の猿です。
文字が刻まれており、正面(写真左面)には「粟船もんじゅぼさつ道」とあり右わき下に「粟船山」、左脇下に「常楽寺」とあります。写真右面には「かまくら雪ノ下道」としっかりほられています。なお写真では分かりませんが正面裏には「庚申供養塔 同行/九人」と二行で刻み、左側面には「享保三年」の造立年代が見られます。
享保三年は江戸中期の1718年、九人の仲間が施主となって建てた庚申供養塔であることが分かります。
これはもともとは境内にあったのでは無く、鎌倉道に面した「はなれ山地蔵堂」に馬頭観音や道祖神と一緒に置かれていたものです。「はなれ山地蔵堂」は現在は無く、跡地は「富士見地蔵」として小袋谷郵便局の前に小さな祠だけが建っています。昭和38年まではこの庚申供養塔兼道標もこちらに置かれていたそうです。鎌倉街道から常楽寺、さらに鎌倉に向かう人のための道標でもあったわけです。おそらく道路拡張などで取り払われ、常楽寺に移されたのでしょう。<木村彦三郎著『道ばたの信仰―鎌倉の庚申塔』p.81 による>
境内とそのまわりの花
- 春と秋
- 夏のひととき
2023年8月9日、夕方。境内には誰もいませんでしたが、白百合と桔梗が咲き乱れていました。
秋の常楽寺 大銀杏
常楽寺の阿弥陀堂前には蘭渓道隆のお手植えで、エピソードで紹介した大蛇が巻き付いたという大銀杏が今も残り、秋(12月初め頃)になると黄金色に染まります。よく見ると中心の大木はすでに枯れており、その周りに何本もの銀杏の木が育っていることが分かります。
大銀杏の前の「蔭涼」とある石碑には、次のように記されています。
「之是銀杏樹開山禅師御手植也、大正六年秋大風の為に傾斜。大正十二年大震之為に東に傾斜。爾後支柱を施す然に年々傾斜の度を増す昭和十三年八月三十日夜暴風の為に全く倒尽すここに於いて檀信徒及有志の援助を仰ぎ以て復旧す
時昭和十四年一月 建長曇華時保書
現常楽禅師澗道建立
木曽塚
いったん常楽寺の山門に戻り、左手の細い道を入っていきます。行き止まりの墓地の左に入り、鬱蒼とした松林の間の山道を進んでいくと、途中に「姫宮の墓」と「粟船稲荷」の小さな石の祠があります。
「姫宮の墓」は、木曽義高の許嫁だった源頼朝の娘の大姫の墓とも伝えられていますが、どうやら正しくは北条泰時の息女の墓と霊を祀る祠であるようです。
さらに山道を登って行くと、頂上に小さな塚と墓石らしいものがあります。脇に石碑が立っており、それでこれが木曽義高の墓であることが判ります。しかし、墓の裏手の垣根の向こう側は住宅地になっており、風情がそがれてしまいます。このあたりがかつての粟船山だったのです。
木曽義高
木曽源氏の源義仲の長男でしたが、頼朝の長女大姫の婿として鎌倉に迎えられました。婿といっても実質は人実です。結局、義仲と頼朝は決裂、頼朝は義経らを義仲追討に派遣すると共に、密かに木曽義高を殺害しようとしました。それを知った大姫は動転し、義高を逃がします。しかし、義高は途中で追っ手の堀藤次親家の郎等藤内光澄によって殺されてしまいました。
大姫は嘆き悲しみ、母政子も娘を不憫に思い、頼朝に義高を討った下手人の処罰を要求します。窮した頼朝は、政子をなだめるため、追っ手となって義高を討った藤内光澄みを斬罪にしてしまいました。
その木曽義高の首はこの近くで首実検された後、近くの田んぼに塚を作って埋葬された(木曽免という地名が残っていました)そうですが、江戸時代の1680(延宝8)年に田の持ち主が掘りだし、当寺の裏の粟船山に塚を作って供養したそうです。現在、「木曽塚」ともいわれています。鎌倉時代の武将や、姫君の質素な墓地が、鎌倉のはずれの地に残されているのは、何となくロマンチックな感じがします。
いっぷくどころ
カフェ 楽庵
常楽寺と木曽塚の訪問し、山道を降りてきた所に最適のいっぷくどころが出来ました。「楽庵」という、小さいですが気鋭の建築家が設計した山小屋風のカフェです。コーヒーの他にランチもあり、ギャラリーや小さな集まりにも使ってもらっているそうです。正直、こんなところに?と思ってしまうほど、見落としてしまいそうですが、開いていたらいっぷくするのに最適だと思いました。
営業 水・木・金・土 URL https://www.laqwan.com
食べログページへ 楽庵 (La qwan )
常楽寺の歴史
北条泰時の粟船御堂
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』によれば、1237(嘉禎3)年、北条泰時は、夫人の母の墓の傍らに一堂宇を建て、導師として退耕行勇を招いて追善供養を行いました。このときは『粟船御堂』といわれていました。泰時は1242(仁治3)年に没するとこの地に葬られ、法名を常楽寺殿といわれるようになり、それによって後に粟船御堂が常楽寺といわれるようになったようです。
この段階の仏教はまだ真言密教・禅・念仏などの宗派は確立しておらず、兼修が一般的でした。泰時も浄土宗の僧から授戒して出家しています。常楽寺も、当初は禅宗の寺院だったのではなく、浄土宗や真言密教とともに禅の要素も持つという寺院でした。北条泰時は阿弥陀仏を篤く信仰したので、阿弥陀仏は今も常楽寺の本尊として仏殿に祀られています。現在の常楽寺は臨済宗の禅寺ですが、禅宗寺院の中ではめずらしい阿弥陀如来像を本尊とするのはそのような理由からです。
北条泰時(1183~1242)は北条義時の子で、1221(承久3)年、鎌倉幕府最大の危機であった承久の乱で六波羅探題として後鳥羽上皇ら反幕府勢力の反乱を鎮圧して執権となり、政子の死後は連署・評定衆の設置、『御成敗式目』の制定などを行い、幕府の基盤を固めた歴史上の人物です。また、和賀江島の構築や、巨福呂坂などの開削など、鎌倉の都市としての発展をもたらした人でもあります。
開山とされる退耕行勇(1163~1241)は鶴岡八幡宮寺の供僧として源頼朝や政子の帰依を受け、永福寺・大慈寺の別当を務めていましたが、臨済宗を日本に伝えた栄西が鎌倉に来ると、その弟子となり禅も修めました。さらに東大寺大勧進職を務め、真言密教の聖地高野山では禅定院(後の金剛三昧院)を禅の兼修道場とするなど、多彩な活躍をしていました。鎌倉では浄妙寺、東勝寺の開山ともなっています。臨済宗の禅が鎌倉の主流になる前の重要な僧侶です。
蘭溪道隆の来日
その後、泰時の孫に当たる5代執権北条時頼は深く禅宗に傾倒し、宋から臨済宗の高僧として知られていた蘭溪道隆(大覚禅師)を招きました。蘭溪道隆は来日し、まず京都に滞在、ついで鎌倉に来ましたが、そのとき最初に入ったのが常楽寺でした。この時はまだ禅宗寺院ではなかったのですが、蘭溪道隆は鎌倉での臨済宗の拠点をここに定め、このとき常楽寺は禅宗寺院になりました。
蘭溪道隆は常楽寺で初めて純粋な大陸の禅の教えを説き、次いで時頼が開基となって創建した建長寺の開山として迎えられました。したがって常楽寺は日本における本格的な禅修道場の最初の寺院と言うことができます。蘭溪道隆の居たころの常楽寺は三門、仏殿、方丈を備える大陸式の禅宗寺院であり、建長元年正月には100名の僧が道隆の説法を聞きに集まったといいます。
その後も蘭渓道隆のもとで参禅求道をする僧が常楽寺の門を叩いたので、寺地を広げ僧堂を建立しました。執権北条時頼も政務の合間を縫って、常楽寺を訪ね、蘭溪道隆のもとに参禅しました。蘭溪道隆の説法は中国語で行われたので、常楽寺では中国語が飛び交い、当時の日本の最先端の外来思想の受容がここで始まった、と言えます。
建長寺は1253(建長5)年に時頼を開基、蘭溪道隆を開山として創建され、後に鎌倉五山の第一位とされた禅道場ですが、その後も建長寺の住持は常楽寺の住職を兼ねており、「常楽寺なくしては建長寺なし」といわれていたのです。
常楽寺の梵鐘
常楽寺にはかつて鐘楼があり、立派な梵鐘が架けられていました。常楽寺の梵鐘は1248(宝治2)年3月21日、北条時頼が祖父泰時の追善供養として鋳造したとの銘文があります。
常楽寺の梵鐘は、建長寺・円覚寺のものと列び鎌倉三大名鐘と言われてきました。常楽寺梵鐘は現存し、国の重要文化財に指定されていますが、現在は国宝館に収蔵されています。
鎌倉国宝館見学の際にはぜひ常楽寺梵鐘をご覧下さい。
江戸時代の常楽寺境内図
2023年2月、常楽寺の「境内絵図」が鎌倉市文化財に指定されました。絵図は江戸中期の1791年に作成された境内の鳥瞰図で、仏殿、文殊堂のほか、同寺を創建した北条泰時の墓や木曽義仲の息子・義高の墓と伝わる「義高墓」などが描かれています。
絵図を見ると、現在のバス通りから山門までのあたりも境内だったことがよく判ります。また水戸光圀が家臣に作らせた江戸初期の鎌倉各所の絵図集『新編鎌倉志』にも常楽寺の古図が載っています。