冷泉為相、阿仏尼とのつながりがあり、足利尊氏が一時蟄居したこともある、扇ヶ谷の古刹。禅宗寺院ではないので、鎌倉寺社めぐりではあまり知られていないかもしれませんが、意外な歴史を伝える寺院です。
浄光明寺の案内
- 宗派 古義真言宗
- 山号 泉谷山
- 開山 真阿(真聖国師)
- 開基 北條長時
- 建立 建長3年(1251年)
- 〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目12−1
- 0467-22-1359
- 道順 鎌倉駅西口から市役所に向かい、市役所前の四つ角を右へ。これが今小路で、そのまま進んで寿福寺前を過ぎ、右手の横須賀線の踏切をわたる。左に向かい、扇ヶ谷上杉氏屋敷跡の碑を右に見て進むとやがてT字路にで出るので、そこを右へ。閑静な住宅地の間を山側に向かって進むと左手に浄光明寺の道標にでるのでそこを入り、山門へ。
歴史を辿りながら
浄光明寺の創建
浄光明寺は、最初は浄土宗であったようですが、後に浄土・真言・律・禅の四宗兼学の寺院となり、現在は古義真言宗に属しています。
開基の北条長時は時頼の次の第6代執権で、最後の執権守時の曾祖父にあたります。守時の妹の登子が足利尊氏の正室となり、室町幕府二代将軍足利義詮の母となります。そのような関係から、浄光明寺は、北条氏・足利氏ともに関係が深く、鎌倉幕府・鎌倉公方から手厚く保護され、室町時代には多くの塔頭をもつ大寺院でした。
足利尊氏と浄光明寺
鎌倉幕府滅亡後、1335年に北条高時の遺児の北条時行が建武新政府に対する反乱を起こしました(中先代の乱)。その時鎌倉を守っていた足利直義(尊氏の弟)は慌てて鎌倉から逃げ出したので、足利尊氏は後醍醐天皇に無断で京を離れて直義救援に向かい、反乱軍を鎮定して鎌倉に入りました。
尊氏が天皇の帰京命令を無視して鎌倉にとどまると、天皇は新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じました。このとき尊氏は天皇の赦免を求めて、この浄光明寺に蟄居したのです。しかし、新田軍・北畠軍が鎌倉に迫る中、尊氏はついに叛旗を翻すことを決意し、室町幕府の樹立に向かいます。
この寺で、大きな歴史の転換になる足利尊氏の決断がなされたということになります。
仏殿と本尊
本堂の脇を進むと静かな緑に包まれた石段に出ます。登っていくと大きな柏槇が目立つ平場が在り、そこに仏殿が建っています。本尊の阿弥陀三尊像は現在は左手の収蔵庫に収められています。
本尊阿弥陀如来
浄光明寺の本尊の木造阿弥陀如来像は、1299年に造られ、鎌倉に現存する鎌倉時代の仏像彫刻の中で特に優れたもので、鎌倉地方の仏像に特徴的な「土紋」を見ることができます。
土紋(文)とは、仏像の衣などの模様を、粘土で型抜きして漆で貼り付けて彩色したもので、仏像の細部に美しい装飾を施す技法です。本尊は長い指で「上品中生の説法印」を結んでおられ、脇侍の観音菩薩と勢至菩薩とあわせて三尊像として国の重要文化財に指定されています。
こちらの収蔵庫は、週の木・土・日のみの公開です。
網引地蔵
仏殿の左脇を通り抜けると、岩肌を縫って階段を登ります。その上の平場の奥に広いやぐらがあり、仲に石の地蔵がおられます。これが網引き地蔵といわれるお地蔵様です。
網引地蔵には、鎌倉の由比ヶ浜の漁師が海中から網にかけて引き上げたという伝説があります。伝説は別として、この石仏には、正和2(1313)年の銘があり、年代がわかる古いものであることがわかります。
また石仏の置かれているやぐらには天井に天蓋を掘られている、鎌倉でも代表的な立派なやぐらです。
冷泉為相の墓
鎌倉時代の文学作品である『十六夜日記』の著者として名高い阿仏尼は、建治3(1277)、土地相続の訴訟のため鎌倉に下りました。その子の冷泉為相も鎌倉に下り、藤谷といわれたこのあたりに住んで、訴訟を継続しました。
墓所の登り口にある説明板には、冷泉為相は藤原定家の孫で、母は「十六夜日記」の作者阿仏尼、歌学・連歌の造詣が深く、歌風は広く世に知られている。永仁3年(1295年)鎌倉に下り、嘉暦3年(1328)この地に没した。この宝篋印塔は相輪が欠けているが、南北朝頃の形式をよく伝えている。なお玉垣は徳川(水戸)光圀が寄進したものである、とあります。
境内のそこここ
秋の浄光明寺
墓所
梅の季節
楊貴妃観音
浄光明寺の山門の傍らに、楊貴妃観音が祀られています。浄光明寺の本山である京都泉涌寺(御寺)にも楊貴妃観音が祀られており、それに倣っています。います。末寺の浄光明寺にも、山門の傍らにひっそりと石造の楊貴妃観音がおられます。
楊貴妃とはいうまでもなく、絶世の美女とされ、唐の玄宗皇帝の妃となった女性。安史の乱で死んだわけですが、泉涌寺に、そして遠く鎌倉に、なぜ楊貴妃像が祀られているのでしょうか。楊貴妃には日本と関わりの深い伝説があるのです。
泉の井
浄光明寺をでて左に向かうとまもなく、鎌倉十井の一つ、泉の井の前医にいたります。
→ 鎌倉十井