宝戒寺

2023/9/24

 鶴岡八幡宮の前から、横大路を東(右)に進み、小町大路につきあたったところに宝戒寺が在ります。春の梅や秋の萩で有名な花の寺ですが、この地は鎌倉時代の北条氏の屋敷があったところ。政治の中枢であったとも言えます。

宝戒寺のガイド

宝戒寺データ

  • 宗派 天台宗 
  • 寺号 円頓宝戒寺
  • 山号 金竜山  院号 釈満院 
  • 開山 五代国師慧鎮円観
  • 開基 後醍醐天皇
  • 寛永寺末寺 現在は延暦寺末寺
  • 創建 建武2(1335)年
  • 鎌倉三十三観音第二番札所
  • 鎌倉江の島七福神 毘沙門天

 〒248-0006 鎌倉市小町3丁目5-22 Tel.0467-22-5512
 拝観料 大人300円  

境内案内

2015/2/15
宝戒寺ガイド

 この地は北条時政(政子の父)以来、代々の北条氏が屋敷としたところで、「北条九代屋敷跡」の石碑もあります。
 この地が寺院となったのは、幕府滅亡の時に北条氏屋敷が焼け落ちた後、後醍醐天皇が執権北条高時の霊を慰めるため、五代国師恵鎮円観を京都から招き、この寺を建立してからのことです。後醍醐天皇が開基となっているのはそのためです。
 後に後醍醐天皇に叛旗を翻し、室町幕府を開いた足利尊氏もまた、宝戒寺を保護しました。その後たびたびの戦乱や、大正11年の関東大震災で多くの建物を失いました。かつて広大だった寺院も、現在では周辺が宅地化し、街中にある狭いお寺になってしまいましたが、境内には北条氏関連の小堂が点在し、梅、萩などの花々や無患子むくろじ、りんご椿などめずらしい植物が見られます。ゆっくりと拝観しましょう。

本堂と諸仏

2019/1/10
  • 宝戒寺本堂
     宝戒寺ご本堂は自由に昇殿することが出来ます。昇殿に際しては、できるだけ鞄などを持ち込まず、仏様や仏具、ふすまなどには触れないようにしましょう。ご本堂では間近に仏様を拝顔することが出来ます(いずれも写真撮影はご遠慮下さい)。
     仏様がたくさん居られますので、どちらをお参りすれば良いのか迷いますが、まずは護摩壇の前に進み、正面の地蔵菩薩さまをお参りしましょう。次に下の図を参考にしてお参り下さい。
宝戒寺本堂内仏像配置図

 正面には中心にご本尊の地蔵菩薩坐像(国の重要文化財)、左に帝釈天たいしゃくてん像、右に梵天ぼんてん像(ともに県重文)が居られます。手前には十王が並び、左手には地蔵菩薩立像が立っておられます。よく目をこらすと、ご本尊の後ろに二本の掛け軸が架かっています。左手が伝教大師最澄(天台宗開祖)、右が桓武天皇像となっています。これだけでも見ごたえのある仏様群です。
 次に左手の陣に移り、正面の不動明王の右手に居られるのが毘沙門びしゃもん天で、こちらが鎌倉江ノ島七福神の一つに加えられているお像です。また手前の厨子の中には准胝じゅんてい観音像で、鎌倉三十三観音の第二番とされている仏様です。
 さらに右手の陣には中央に閻魔大王が居られ、そのまわりに伝教大師、弘法大師、開山開山五代国師、第二代の普川国師のお像が祀られています。これらの仏様をお参りするだけでも、ずっしりとした重みを感じますね。

  • 本尊地蔵菩薩坐像 国重文 通常の地蔵菩薩像と同じく衣の上に袈裟を掛け左手に宝珠、右手に錫杖を持つ。像高は91cm。檜の寄木造で玉眼入り。貞治4(1365)年、仏師三条法印憲円の作。その穏やかな表情は鎌倉の他の地蔵菩薩像と異なっており、京都で造られ鎌倉に運ばれたのではないかと言われている。この地蔵菩薩は子育経読地蔵大菩薩といわれ、鎌倉では子育・経読み地蔵として親しまれている。左手前の地蔵は唐仏地蔵とも言われている。
  • 帝釈天と梵天 県重文 地蔵菩薩の脇侍で(本尊から見て)右に帝釈天、左に梵天が配されている。この二天は通常は聖観音菩薩の脇侍となることが多く、地蔵菩薩の脇侍となっているのは珍しい。帝釈天はインドラ、梵天はブラフマンというもともとインドの神であるが、仏教に取り入れられて仏法の守護神とされている。両像は本尊と同じ時期に創られたと考えられる。
  • この他、宝戒寺には歓喜天かんぎてん立像と惟賢ゆいけん和尚(宝戒寺第二世)坐像の二体の国の重要文化財が所蔵されていますが、前者は本堂奧の大聖歓喜天堂に収蔵されており秘仏、後者は東京国立博物館に収蔵されており、ここでは見ることはできません。

 エピソード 高倉健の寄進札  
 仏様の参拝がおわったら、右手の鴨居の上の本堂再建に寄進された方のお名前札を見て下さい。その中に高倉健さんのお名前があります。意外ですが、高倉健さんは福岡県の生まれで、その本名の小田氏は北条氏の流れを汲む、北九州の豪族だったそうです。そこで健さんは自分の先祖である北条氏縁の宝戒寺に寄進をされています。宝戒寺の裏手の滑川を渡った奥まったとこには、北条氏の菩提寺だった東勝寺跡があり、そのさらに奧に執権北条高時が自害した腹切りやぐらがありますが、そこでも高倉健さんが納めた卒塔婆がたくさん建てられています(今は入ることは出来ません。小町大路・東勝寺跡の項を参照。)

境内

 ご本堂の右手に、聖徳太子堂、徳崇とくそう大権現、大聖歓喜天堂が並んでいます。聖徳太子は日本で最初の仏教保護者として寺院ではよく祀られています。徳崇大権現とは実質的な鎌倉幕府最後の執権北条高時を祀るお堂です。北条氏本流を得宗家とくそうけというので、高時も徳崇大権現とされたのでしょう。大聖歓喜天堂に収納されいる歓喜天立像とは、象頭人身の二天が抱き合う形から、男女の和合、安産の守護として信仰を集めています。宝戒寺創建頃に造られたもので、像高152cm、土紋もみられる貴重な文化財ですが、秘仏のため一切公開されていません。
 本堂左手には鐘楼があり、梵鐘が架かっています。

樹木と花

 宝戒寺の境内には、いろいろな樹木が見られます。とくに無患子むくろじは市内でも有数の大きさです。無患子の木の実は水でもむと泡が出て、石鹸の代用品でした。また実の核の黒い球は、昔から羽根つきの玉に使われています。現在も宝戒寺のお守りとして売られています。
 この他、本堂右手には大きな柏槇びゃくしんが立っており、また本堂左手脇には「りんご椿」という実がリンゴ大になる珍しい椿の木があります。これらの樹木を見るだけでも楽しいですね。

 次は梅の時期の様子です。

 7月中旬、萩にはちょっと早いですが、本堂の左手には「りんご椿」の実が大きくなっていました。

ところどころ

 参道の途中、左側に庚申塔が三基並んでいます。通常、庚申塔には三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が彫られることが多いですが、これは一基に一猿のめずらしい形です。 → 庚申信仰
 蓮の花は、本堂前の天水おけに咲いていました。境内のところどころにふと目をやると、面白いものが見つかります。

萩の寺 宝戒寺

2023年9月24日

 宝戒寺は「萩の寺」といわれるように、秋になると境内一面に可憐な萩が咲き誇ります。
 2023年9月24日に訪れたところ、おりから「秋彼岸大法要」の読経の最中でした。法事ですのでお堂には上がらず、境内の萩の花を見て回りました。おりしも彼岸花の盛りでもありました。宝戒寺の萩がほとんど白であるのとあわせたのか、彼岸花も白でした。その中で芙蓉のうす赤色が目立ちます。

 白い彼岸花があちこちに咲いていました。

 ふと見上げると、本堂の大屋根の上には秋の空が広がっていました。

宝戒寺ショートヒストリー

 宝戒寺は鎌倉時代にはまだ無く、この地は前述のように代々の北条氏が屋敷としたところで、幕府滅亡のときに舘にも火がかけられ、北条高時以下の一門は北条氏の菩提寺であった東勝寺に退き、その裏山で自害しました。東勝寺跡にはその「腹切りやぐら」がもの悲しい雰囲気とともに残っています。
 さて、戦いに勝った側の後醍醐天皇は、北条氏滅亡のこの地に残るその怨霊を鎮めるために、足利尊氏に命じて寺を建てることにしました。建武2(1335)年3月28日付で京都の法勝寺の恵鎮えちん円観えんかん(1281~1356)を開山として、所領寄進を行いました。
 宝戒寺は北条氏鎮魂の寺ですから、祈祷を主とした密教の儀式が行われる場です。念仏を唱える浄土系、法華経を信奉する日蓮系、そして坐禅による悟りを目指す禅宗系とは異なり、天台宗に属しています。鎌倉とその周辺では天台宗は少なく、現在は杉本寺と逗子の神武寺ぐらいです。

  • 開山恵鎮円観 円観が法名。恵鎮は自称。京都の天台宗寺院である法勝寺ほっしょうじの高僧で、後醍醐天皇の前後の五代の天皇に戒を授けたことから五代国師と言われます。後醍醐天皇の倒幕の計画に加わり北条氏を呪詛したことが発覚し、陸奥に流されるということもありました。幕府滅亡後、後醍醐天皇に乞われて宝戒寺の開山となりましたが、実際に整備にあたったのは貞和3(1347)年に鎌倉に下向した弟子の惟賢ゆいけんでした。当時、西大寺の叡尊えいそん(極楽寺開山で有名な忍性にんしょうの師)らが戒律を復興させ鎌倉新仏教教団として律宗りっしゅう教団を立ち上げていました。恵鎮はその刺激を受け、天台宗でも戒律復興の運動を開始し、「恵鎮教団」と言われています。本堂内陣の右端にその肖像が安置されています。
  • 恵鎮教団 宝戒寺も恵鎮教団の一員として、室町時代の関東での布教にあたりました。この恵鎮教団は、中世文化史の上で重要な役割を果たしています。鎌倉幕府滅亡から南北朝の動乱に深く関わっていた恵鎮は、実は『太平記』の原型を編纂した中心人物とみられているからです。一般に『太平記』の編者とされる小島法師は恵鎮教団の一員であり、教団で長期にわたって書き継がれていた『太平記』を現在のような形にまとめたのが小島法師だろうと考えられています。<松尾剛次『鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景』歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 p.90~92>
  • 足利尊氏 宝戒寺開基は後醍醐天皇とされていますが、実質的には足利尊氏の保護によって造営されたようです。その後、たびたび火災に遭いましたが、江戸時代には天海僧正(増上寺)によって天台宗の戒壇の一つとされ、江戸幕府の保護も受けました。しかし、明治以降は次第に衰微し、現在の寺域は全盛期の10分の1ほどになってしまい、さらに関東大震災ですべての建物を失いました。現在の建物はいずれも震災以降のものですが、多くの仏像は火災を免れ、今に伝えられています。

もっと知りたい方に

鎌倉古寺を歩く: 宗教都市の風景 (歴史文化ライブラリー 202)
吉川弘文館
松尾剛次著。鎌倉の宗教都市としての側面に光を当て、僧侶や暗躍する陰陽師の実像を描き、多くの怨霊鎮魂の寺に論及。
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