光則寺

光則寺

 光則寺も日蓮宗の寺院で、樹齢200年を超える海棠など、たくさんの花にあふれた「花の寺」として有名です。この寺はもとは執権北条時頼に仕える宿屋(宿谷)光則の屋敷地でした。光則寺の名は、宿屋光則にちなんでいます。日蓮の高弟の日朗が捕らえられて入牢した窟が残っています。
 境内は山門で100円を支納箱に入れれば、自由参観できます。

 光則寺データ

  • 宗派:日蓮宗・山号:行時山
  • 開山:日朗上人
  • 開基:宿谷光則
  • 創建:文永11年(1274)頃
  • メモ:日朗上人の土牢。宮沢賢治の詩碑などあり。
  • 拝観料:大人 100円

 ミニガイド

光則寺参道入口の碑

 参道入口の石碑には「日蓮聖人立正安国論進献霊跡」「宿谷左衛門(行時・光則)邸址」とあります。
 宿谷行時やどやゆきときは執権北条時頼に仕える武士、その子が光則みつのりでその屋敷がこの地にありました。時代は元寇の直前、国難が迫っていました。
 日蓮は文応元(1260)年『立正安国論』を書いて幕府に提出しようとしましたが、時の執権北条時宗に直接手渡すことはできませんから、前執権で隠居していた北条時頼に仕える宿屋光則に取り次ぎを頼んだのでした。
 しかし日蓮の訴えは受け入れられず、後の文永8(1271)にかえって罪人として捕らえられ佐渡に流されることになりました。その時、弟子の日朗にちろうは捕らえられ、宿屋光則の屋敷に預けられました。

 参道を進むと、住宅街の奥に光則寺が見えてきます。左手に寺号の光則寺、右手に山号の行時山とああります。寺号は宿谷光則、山号はその父宿谷行時の名に由来します。
 右手には光則寺が経営する幼稚園があります。平日の午後になると園児を迎えに来るお母さんたちの自転車が集まってきます。

光則寺入り口

 正面の階段を上れば、光則寺の山門です。朱塗りの門が周りの緑の中に、ひときわくっきりと生えています。なお、右手の古い建物は光則寺幼稚園の旧園舎です。また左手には梅の古木があり、花の季節には入山前に心を和ませてくれるでしょう。
 山門の扁額には「宿谷」とあります。これはこの地が宿谷光則の屋敷だったことを示しています。

立正安国論碑

『立正安国論』
 本堂の前の大きな石碑に日蓮自筆の立正安国論由来の記が彫られています。
 これは、鎌倉時代のなかごろ、日蓮が国難が近いことを憂慮し、旧仏教による祈祷などが効力がないと非難し、幕府に対し法華経にもとづいた統治を提言したものです。日蓮はそのころ鎌倉の東南の松葉が谷を拠点に活動し、立正安国論を書いたと伝えられるのが現在の安国論寺です。近くには日蓮辻説法の跡もあります。
 まさにこの年、モンゴル帝国の皇帝フビライから国書がもたらされ、従属を求めてきました。日蓮は自分の考えを立正安国論と題して時の実力者である前執権の北条時頼の家臣宿谷光則に提出したのです。

それにはおよそ次のように記されています。
「日蓮世間の体を見て粗一切経を勘ふるに御祈請験し無く還て凶悪を増長するの由道理文證之を得おわんぬ 終に止むこと無く勘文一通を造り作し其名を立正安国論と号す 文応元(1260)年庚申七月十六日辰の時屋戸野やどや(宿谷)の入道に付して古最明寺の入道殿(北条時頼)に奉進し了んぬ 此偏これひとへに国土の恩を報せんが為也 文永五(1268)年太歳戊辰四月五日 日蓮(花押)」
 正面の石碑の文字は日蓮自筆によるものですが、独特の筆使いのため読むことが難しいので、左手の石碑にわかりやすい文字でその内容が記されています。

光則寺の創建 
 しかし日蓮の提言は退けられ、かえって幕政に反する行動として捕らえられて佐渡流罪となりました。そのとき、日蓮の最初の弟子であった日朗も捕らえられましたが、この宿谷光則邸の裏山の土牢に閉じ込められました。その土牢は今も裏山に残されています。
 その後、日朗は許されて鎌倉での日蓮宗の布教の中心人物となりました。宿谷光則はその後、彼自身が日蓮を信仰するようになり、この地を寺地として、文永11(1274)年に山号を父の宿谷行時の名から行時山、寺号を自らの名から光則寺として一時を創建しました。
 光則寺の現在の本堂は慶安3(1650)年の建造ですが、額の「師孝第一」は日蓮の自筆といわれています。「師孝第一」とは日蓮が最も信頼した弟子の日朗に贈った言葉です。境内には日蓮とこの寺の関係を記した立派な石碑、熱心な日蓮宗の信者だった宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ・・・」の歌碑などがあります。

 日朗の土牢

日朗の土牢

日朗の土牢と日蓮の「土牢御書」
 裏山の日朗の土牢に登って行く途中には、宿谷光則の墓、この近くの長谷で三橋旅館を経営していた三橋家の墓所、そのとなりに杉聴羽の歌碑(なき人のすかたはみえぬさみたれの宿谷のおくになくほとときす)などがあります。
 階段を上っていって最後の平場につくと、奥に牢獄状の大きな窟が見えます。これが日朗が幽閉された土牢です。土牢の前には、日蓮が日朗(筑後殿)に送った切々と弟子を思う手紙「土牢御書」が石碑に刻まれています。
 土牢御書文面には「日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今夜のさむきに付けても籠のうちのありさま思ひやられていたはしくこそ候へ。・・・」とあり、弟子を思う心が良く現れています。
 日朗は最後に安国論寺で荼毘に付され、その後に墓所が建てられています。

 光則寺の花

「花の寺」 しかし何と言っても光則寺のすばらしいのは、そう広くはない境内一杯に咲き誇る季節の花々です。最も有名なのは本堂前の海棠かいどうです。そして有り難いことに、植物にはちゃんと名札が付けられており、また山門で100円の拝観料を小箱に入れれば、境内のお花マップを手に取ることができますので、「なんていう花だろう、きれいだな」とおもったら名札とマップを見て下さい。

 もっと知りたい方へ

 光則寺と日蓮、日朗について、次のような書籍が参考になります。

日蓮と鎌倉 (人をあるく)
吉川弘文館
仏教の“坩堝”鎌倉に果敢に飛び込み、卓抜した行動で法華経信仰を流布させた日蓮宗の開祖。蒙古襲来の予言、念仏者との抗争、たび重なる流罪など波瀾の生涯を活写。鎌倉の日蓮宗寺院を巡り、その思想と行動に迫る。
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