謎の多い国宝 鎌倉の大仏
鎌倉の建造物で国宝に指定されているのは、この鎌倉大仏と、建築の円覚寺舎利殿しかありません。東大寺の大仏は、二度にわたって戦火で焼かれ、現在の姿は江戸時代のはじめに再建されたものですが、鎌倉大仏は、幾多の危機はあったとは言え、鎌倉時代に創建されたままの姿です。江戸時代には豊臣秀吉が造った京都の方広寺の大仏と共に、日本三大仏といわれていたのですが、それも焼失してしまいました。
- 宗派:浄土宗
- 山号寺号:大異山高徳院清浄泉寺
- 開基・開山・創建:不詳
- 本尊:国宝銅造阿弥陀如来像
- 拝観料:300円 ※体内拝観は現在停止中
解説① 鎌倉大仏の特徴
- 全体像 左右対称のゆったりした着衣、少し猫背になった姿勢などは宋の仏像の影響がある。
- 阿弥陀定印 親指を外側に出した、珍しい印相を結んでいる。これはかなり特殊である。
- 肉髻(頭が盛り上がった部分)も低い。
- 男性的な風貌 切れ長な目、引き締まった口元。ここには運慶様の影響も見られる。
- 残る金メッキ わずかに右こめかみに見られる。
- 大仏殿崩壊の際のへこみか 左肩に大仏殿が崩壊した時にできたとされるへこみが見える。
- 原型を排出した窓 背面にある二つの窓がそれ。
- 蓮華座がない 江戸時代に造ろうとしたが完成せず。一部の蓮弁だけ背後に置かれている。
解説② 鎌倉大仏の七つの謎
1.いつ完成したか
『吾妻鏡』によれば、建長4(1252)年に深沢里で「金銅八丈釈迦如来像」の鋳造が始まった、とされていますが、いつ完成したか、記録がありません。さまざまな説が出されていますが、最近は弘長2(1262)年説が注目されています。この年はなんらかの事情で、幕府の正式記録である『吾妻鏡』の記録が無い年です。高徳院の歴史がわかるのは江戸時代の中頃、正徳2(1712)年に芝増上寺の祐天上人らが大仏の復興を発願してお寺を整備してからです。
2.木造大仏と銅造大仏
同じ『吾妻鏡』に、建長4年より前の暦仁元(1238)年に僧浄光が深沢里で「大仏堂」を建てることを思いつき勧進を開始したという記事があります。そして、『東関紀行』と言う書物には、仁治3(1242)年にこの大仏を見た記録があり、それによると「八丈の大きさの木造」であったと云っています。八丈とは、立った時の高さですから、実際には4丈(およそ12m)の高さの木造であったわけです。この木造大仏は寛元元(1243)年に完成し開眼供養が行われたことも『吾妻鏡』に出てきます。とすると、それからわずか9年後に金銅大仏の鋳造が始まったと言うことになります。木造大仏が大風で倒壊したため、金銅で造り直されたという説と、木造大仏を原型にして金銅大仏を造ったという説に分かれています。
3.阿弥陀如来か釈迦如来か
『吾妻鏡』には建長4年の記事に「釈迦如来像」とありますが、鎌倉大仏は仏像の様式からすると、阿弥陀如来であることは確かです。違いは、その印相にあります。釈迦如来は右手を正面に向けて開き(施無畏(せむい)印)、左手は掌を開いて膝の上に置く(与願印)のが一般的ですが、定印を結ぶ場合は、両手を組んで親指をあわせます。阿弥陀仏の定印は人差し指を上に向けて親指と輪を作って左右を合わせます(右図を参考)。違いはよく見ないとわかりません。松尾剛次『鎌倉 古寺を歩く』p.38
4.開山は誰か
大仏造営のために諸国の貴賤から勧進を募ったという僧浄光についても、どのような人物であったか、わかっていません。しかし、鎌倉時代に「勧進僧」が活躍したことはたしかであり、その力で大仏が作られたと言うことは重要です。江戸時代に高徳院で編纂された『大仏縁起』には、建久元(1195)年に源頼朝が東大寺大仏再建の供養に参列した時、同行した北条政子に従っていた侍女の稲多野局が、頼朝の死後、大仏建立を発願したとされていますが、この稲多野局は当時の資料には一切姿が見えず、事実かどうかはわかりません。
5.開基は誰か
鎌倉大仏(および大仏殿)の開基(あるいは施主)となった人物についても幕府の記録『吾妻鏡』には何故か出てきません。現在までさまざまな説が出されていますが、これだけの大事業に鎌倉幕府の関与がなかったとは思えません。最も可能性が強いのは、1238年の木造大仏の建造が始まった時の執権北条泰時、あるいは連署(執権の補佐)の北条時房で、彼らは承久の乱に際して京都に上り、奈良の東大寺大仏を見る機会もありました。また、建長4(1252)年の金銅大仏(現在の大仏)は執権北条時頼の存在が無関係ではありえないと思われます。
6.何のため造られたか 文献上は確かめようがありませんが、東大寺の再建に大檀那として参加した源頼朝に、聖武天皇の東大寺大仏に対して、武家政権のシンボルとしての大仏を造ろうという意図があったかも知れません。それを実現したのが承久の乱で武家政権を確立させた北条氏であったのではないでしょうか。鎌倉幕府の全国統治の象徴として、鎌倉の西の入り口に近い長谷に大仏を建造し、それは八幡神の本地仏である阿弥陀仏でなければならなかったものと考えられます。
7.どうやって造ったか
大仏の鋳造は次のような手順が想定されています。
- 原型をつくる。それが木造か塑像かは説が分かれる。
- 原型に対して塑土で外形の鋳型を造る。
- 外形に合わせて中型(なかご)を造る。
- 中型の表面を銅の厚さの分だけ削る。
- 内型と外型を設置し土を盛って固定。
- 内型と外型の間に銅を溶かし流し込む。
- 胴は7段、頭部は4段に分け作業を繰り返す。
- 格段のつなぎ目を「鋳繰り」でつなぐ。
- 最後に周囲と内部の土を取り除く。
・高度な「鋳繰り」の技法
大仏の体内に入り、内側から観察すると、格段がブロックごとに鋳造され、それを貼り合わせたことがよくわかります。接合部には強度を保つため三種類の「鋳繰(いからく)り」という高度な技法が用いられています。度重なる地震にも大仏が耐えた理由がわかります。
・銅銭を原料に?
最近、鎌倉大仏の原料を科学的に分析した結果、その成分には銅だけでなく鉛の成分が多いことが判明し、その比率が銅銭に近いことから、大仏の鋳造に宋から輸入された大量の銅銭が用いられたのではないかという説が有力になっています。
・鋳物師集団の存在
大仏の鋳造にあたった鋳物師も詳細はわかりませんが、丹治久友など、わずかな名前から、河内など西国から下向した集団がいたことが判っています。彼らは、大仏鋳造だけでなく、大寺院の梵鐘や金属製品の製造に活躍したようです。
大仏の内部(現在は見学できません)
解説③ 大仏の周辺
大仏殿があった
大仏殿の建物があったことは、大仏の周囲に巨大な礎石が点々と並んで残されているので確かです。平成12(2000)年に発掘調査が行われ、間口44m、奥行き42.5mの大きさで、瓦は出土しなかったので瓦葺きではなかったことがわかりました。明応7(1498)年の津波によって倒壊し、その後再建されることなく、「露座」ですごしています。
観月堂
大仏殿の背後、与謝野晶子の歌碑の左手にある建物は、本来の高徳院のものではない。説明版によると、この建物はもとは韓国のソウルにあったもので、朝鮮王朝の王宮の建物の一つだった。1924(大正13)年、杉野喜精氏が高徳院に寄贈し、観音菩薩をお祀りして観音堂と呼んでいる。鎌倉三十三観音霊場23番札所ともなっているというが、1910年の韓国併合によって日本の支配が及んだことによって、日本にもたらされることになった文化財の一つと言える。
ミニギャラリー
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