源氏山とは
この公園は、昭和40(1965)年に整備され、桜や紅葉の名所として鎌倉市民や観光客の皆さんに親しまれています。また、銭洗い弁天方面からは車でも上がれますが、公園には、浄智寺、寿福寺に降りる道や、尾根伝いに大仏切通までの道もあり、手頃なハイキングコースとして人気があります。しかし、歴史的に重要なのは、扇ヶ谷から化粧坂を上り、梶原に抜けていく道が、かつての鎌倉と京都を結ぶメインルートの一つであったことです。
また現在は源氏山公園として一括して管理されていますが、鎌倉の市街地に囲まれた広い丘陵地帯で木々が生い茂っている中に道が幾筋もあり、いくつもの谷戸が入り込んでいて、道に迷ってしまう人もしばしば見かけます。広い源氏山公園は
①葛原岡神社・日野俊基の墓のあたり
②源頼朝像のある公園の中心
③本来の源氏山(旗立山)あたり
の三つの地域にわかれています。次のガイドマップを参考に、源氏山をお楽しみください。
なお、源氏山には食堂や茶店はありません。天気さえ良ければ、おにぎりやサンドイッチを持ってゆき、葛原岡神社前の広場か頼朝像の前の芝生でいただくのが良いでしょう。もちろん花見や紅葉狩りを皆で楽しんでください。・・・一つだけ、トンビにおにぎりを攫われないように気をつけて!
源氏山公園ガイドマップ
鎌倉駅からのアクセス
源氏山公園は紅葉や桜など、季節ごとのすばらしい景色を楽しめるところですが、ハイキングコースとして整備されていますから安心です。ただし、コースによっては山道を下ったり登ったりしますので、足ごしらえはしっかりとしましょう。鎌倉駅からは歩いて行けますが、バス便その他はありません。どうしてもタクシーで、と言う人は葛原岡神社入り口までは車が入ります。
鎌倉駅からの徒歩コースでは、主なコースは次の二つが一般的です。
- 化粧坂から上がるコース 鎌倉駅西口(時計台側)から市役所前の四つ角を右に入り、寿福寺前→英勝寺前→横須賀線ガード前を左→扇ヶ谷の住宅街を中の海蔵寺に向かう道を進み、途中標識があるので路地を左に入り、化粧坂に向かう。現在は通行可能ですが、崖崩れなどで通れないこともありますから注意しましょう。化粧坂を登り切ったら、右に行けば葛原岡神社、左に行けば頼朝像へと行けます。
- 銭洗弁天から上がるコース 鎌倉駅西口(時計台側)から市役所を左に見てトンネルを二つ抜けていく。このあたりが佐助の住宅街です。途中標識があるので、右に入り、銭洗弁天に向かいます。広い道ですが途中から急になりますよ。銭洗弁天に抜ける洞窟には入らず、そのまま坂を登っていくと左手に石段があり、そこを上がると公園に入ります。石段を登らず右に行くとそのまま、葛原岡神社参道と頼朝像・源氏山への分岐に出ます。
これ以外には、北の浄智寺から上がるコース、南の寿福寺から上がるコースがありますが、いずれも急な山道の上り下りのあるハイキングコースです。探検心があればぜひ訪ねてみてください。また扇ヶ谷か梶原方面の住宅地から上がる道もあります。上のガイドマップをご覧ください。
葛原岡神社
葛原が岡神社―①
平安時代に、桓武天皇の皇子、葛原親王がこのあたりを平定し、その孫の高望王の子孫が桓武平氏となり、梶原氏・村岡氏・鎌倉氏・大庭氏などはみなその分かれであると言います。
また鎌倉時代には、武蔵大路(鎌倉往還上ノ道)が化粧坂を上り、梶原方面に下っていくところで交通の要衝でしたが、同時に鎌倉の北西の境界にあたり、昔からの刑場であったので、日野俊基の処刑もこの地で行われたのです。付近には火葬場の跡もみられ、北側の瓜が谷には「やぐら群」が残されています。また周辺からは縄文時代の住居跡や遺物が出土しており、古くから人間が住んでいたとおもわれます。
葛原岡は、地名としては「くずはらがおか」と呼んでいますが、神社は「くずはらおか」と呼んでください、と宮司さんが言っておられました。
葛原岡神社は、後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府を倒す先駆けとして捕らえられ、この地で処刑された人物である日野俊基を祭神として、明治20(1887)年に創建された、新しい神社です。
鎌倉幕府が倒れるきっかけをつくった人物を祀る神社が、源氏山にあるのは考えてみればおかしいのですが、明治時代の風潮からすればありうることだったのでしょう。
もっとも現在は、そのような歴史的な意義を自覚してお詣りする人はなく、神社の方も俊基公の鎮魂というのではなく、縁結びの神社として喧伝しています。
- 葛原岡神社
- 祭神 日野俊基。
元弘2(1332)年6月3日にこの地で処刑されたと伝えられる。 - 創建 明治20(1887)年
地元有志が日野俊基の顕彰のために神社を創建した。 - 本殿脇に、俊基処刑の際に血を浴びたと言われる石が残されている。
合鎚稲荷―② 江戸時代には鎌倉の刀工として有名な正宗の後裔である山村綱廣の屋敷になっていましたが、大正年間にこの地に別荘を構えた三菱財閥の岩崎小弥太が屋敷内にあった「合鎚稲荷」を復興しました。老朽化した稲荷をセンチュリー財団が平成12年に再建しましたが、その社殿は鎌倉市への移管に伴い葛原岡神社に移築されました。現在その跡は見晴台として公開されています。なお、正宗の墓は本覚寺にあり、綱広の子孫は今小路で今も工房を持っています
無患子の大木―③ 参道には無患子(その実は石けんがわりにされたり羽根突きの玉にされる)の巨木があります。無患子の大木は、小町大路の宝戒寺の本堂の左側にもあります。
藤原仲能墓―④ 神社前にある「藤原仲能墓」の碑があります。藤原仲能は、麓の海蔵寺を中興した人で、その墓と伝えられる塚がこの付近にあったそうで、東側の小高い土盛りがそれだとも言われています。しかしこの塚は、古墳の一つではないか、との説もあります。
葛原ヶ岡の桜
葛原岡神社の前は広場になっており、ベンチが並んでいて弁当を使ったり、一休みするのに最適です。またこの辺り一帯は、桜が多いところで、春には多くの花見の人で賑わいます。
北鎌倉に抜ける道 葛原岡神社が源氏山公園の北の端です。神社の右手に山道は浄智寺まで降りることのでき、逆に辿れば北鎌倉方面から源氏山に入るコースになります。今回の源氏山公園の案内とは別に、ご案内する予定です。
富士山の見えるポイント―⑤ 神社の前の広場をあとに南に向かうと、西の方に降る道に出ます。このポイントは、源氏山で唯一、富士山が見えるポイントです。しかし山の向こうにかすかに頭を出しているだけなので、よほど天気が良くないと見えないでしょう。
ここを右に進むと左手に家が点在し、右手に山が続きますが、どんどんいくと北鎌倉と梶原を結ぶ道路に出てます。いったん道路に出て、途中の給水地のところから台山方面に抜けることもできます。
アジサイの小径―⑥ 神社の前の道はこのあたりから、ひろい自動車道になり車も入ってきますが、左手に細い道が見えます。これが自動車道が整備される前の旧道で、最近はアジサイが植えられ、「アジサイの小径」と名付けられました。昔の源氏山の雰囲気を味わうなら、こちらを通った方が良いでしょう。
日野俊基墓―⑦
日野俊基は儒学を家業とする公卿で、朱子学を学び大義名分論に基づいて天皇親政を理想とするようになりました。後醍醐天皇の側近に仕え、その倒幕計画に参画しましたが正中元(1324)年に計画を六波羅探題に察知され、捕らえられて鎌倉に送られました(正中の変)。
一旦許されて京に戻りましたが、元弘元(1331)年に再び捕らえられ、鎌倉に送られ、翌年、この地で処刑されました(元弘の変)。『太平記』巻二には日野俊基が捕らえられて鎌倉に送られる道中と、葛原岡での処刑される俊基に、郎党の後藤助光が北の方(妻)の手紙を届け、俊基が落涙する場面も印象深く描かれています。
元弘の変のとき後醍醐天皇も隠岐に流されました。しかし翌年に脱出して再起し、元弘3(1333)年、倒幕の兵を募りました。このとき足利尊氏が後醍醐天皇に応えて幕府に反旗を翻し、さらに新田義貞も天皇方で挙兵して鎌倉に攻め入り、北条高時以下北条氏一門が東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅亡しました。
現在、日野俊基の墓とされる宝篋印塔は、明治時代に有志が勝長寿院(大御堂)跡の谷でバラバラになっていた石材を集めて建てたものす。この石塔自体の形は室町初期の形式と推定されていますので、日野俊基の墓とは言えません。本当の墓所は、葛原岡神社の右手の小高い丘の頂上と言われていますが、現在は上ることは出来ません。
源氏山公園の紅葉
アジサイの小径は通らず、日野俊基の墓の前から広い自動車道を南に下り、途中分岐点から右に入るとちょっとした丘にのぼります。そのあたりは、紅葉が最も美しいところです。
以下、いずれも2014年11月21日の撮影です。
源氏山公園内の十字路
紅葉のきれいな岡の南に東西に走る道は、化粧坂から登ってきて西に向かう道です。西に降りていくと、現在の梶原の住宅地を抜けて、深沢方面に出ることになります。つまりこれが、西から鎌倉に入る際にも使われた幹線だったわけで、大変重要な道路でした。
現在も源氏山公園内の十字路的なところで、北に行けば葛原岡神社前から山を下り、浄智寺に出る道、西に行けば梶原・深沢から遠く京都へ、東に降りれば化粧坂から鎌倉市中へ、そして南に向かえば銭洗弁天から佐助稲荷へ、という交通の要衝だったのです。
自動車道で削られたやぐら―⑧ ここから階段を降りて広い道路を南に降っていくと、銭洗弁天入り口の前に出ます。その途中、道の右壁の人工的に削った壁面を見ると、上の方にぽっかりと穴が開いています。これは鎌倉・室町期につくられた「やぐら」です。源氏山一帯にはかつてこのようなやぐらがたくさん残されていました。かつての山道はやぐらのあるあたりの高さのところを通っていたのですが、源氏山公園を整備して自動車道を通すため山を削ったのです。このやぐらは偶然、削り取られずに残ったのでした。
右の写真の右手の細い道を入ると、銭洗弁天の上部に出ますが、細い山道ですので通常は広い車道を降りましょう。
化粧坂―⑨
銭洗弁天に降りるのはこの次にして、今日は分岐点から化粧坂に向かいましょう。
化粧坂は鎌倉時代には、鎌倉の玄関口で、この坂の上と下は、大変に賑やかだったそうです。京都から来た人が鎌倉に入るには、海側の極楽寺坂からと山側の化粧坂からのいずれかがルートでした。また、鎌倉を守る軍事上の要地でもあり、鎌倉七口の一つとされています。
鎌倉七口 一般に、①極楽寺、②大仏、③化粧坂、④亀ヶ谷、⑤巨福呂坂、⑥朝比奈、⑦名越の七つの切通しを言います。亀ヶ谷切通しの代わりに⑧小坪切通しを入れる場合もあります。
化粧坂の地名の由来 化粧坂という名は、源平合戦のころ、平家の武将の首を此処で化粧して首実検に備えたからとか、鎌倉に入る旅人が衣装を整えたからとか諸説あります。有力なのは、この坂の下が、当時は遊女の里であったからというのがあります。『吾妻鏡』建長3(1251)年条には、鎌倉の中で小町屋を構え商売をしてもよい場所として、大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻とならんで、「気和飛坂上」が指定されています。
化粧坂は、大雨や台風の後で崖崩れになり、交通止めになることがよくあります。散策の際は鎌倉市のホームページなどで確認するといいでしょう。
化粧坂の戦い 元弘3(1333)年5月、新田義貞の率いる10万の大軍が、鎌倉を包囲しました。義貞の本隊はこの化粧坂をめざし、それを幕府側の守将北条貞将が迎え撃ちました。幕府軍は激しく抵抗し、容易に新田軍の突入を許しませんでしたので、新田方は主力を稲村ヶ崎に廻しました。稲村ヶ崎を突破して鎌倉市中に入った新田軍は、市中を焼き払いながら化粧坂の北条軍の背後に迫り、挟み撃ちになった北条貞将ら幕府軍も総崩れとなり、鎌倉幕府は滅亡しました。
源頼朝像―⑩
源氏山の一角に源頼朝像が建っています。頼朝が鎌倉に入って800年目に当たる1980(昭和55)年に記念事業として鎌倉観光協会が建立したものです。若々しい頼朝像として親しまれ、鎌倉のシンボルともされていますが、この像は有名な神護寺の源頼朝像をもとに、鎧を着せたもので、はたして頼朝の姿と言えるのでしょうか。次の三つの肖像を比べてみてください。
源氏山=旗立山―⑪
源氏山は、源頼義・義家親子が後三年の役(1083~1087年)で奥州に遠征する途中、はじめて鎌倉に入ってこの山上に旗を立てたことから旗立山といわれました。その後ふもとの現在の寿福寺の地に源義朝が屋敷を構え、源氏山というようになりました。
さて本当の源氏山とは旗立山のことだというわけですが、現在の頼朝像のあるは実は旗立山ではありません。旗立山は頼朝像のある丘の東南方面に見える小高いピークです。
どんなところでしょうか、行ってみましょう。
太田道灌の墓―⑫
源氏山から寿福寺に下る山道の途中に「太田道潅の墓」という小さな石碑があります。太田道潅(資長)は江戸城を築いたことで有名ですが、太田家は室町時代に鎌倉を治めていた鎌倉公方足利氏の補佐役、関東管領上杉氏の家宰で、その屋敷が源氏山の麓、現在の英勝寺の場所だったとされています。