円覚寺

2013/1/13

 鎌倉を代表する禅寺の一つ、五山第二位の円覚寺は山門・仏殿・舎利殿を中心として、佛日庵などの塔頭が点在して落ち着いた雰囲気をかもし出し、北鎌倉の山々は季節ごとに異なる美しい背景となっています。円覚寺は鎌倉幕府の執権北条時宗が開基となり、中国から招いた無学祖元を開山としてひらかれた臨済宗の寺院で、元寇での戦没者の霊を慰めるために建立されました。歴史と仏教、中世の文化にも深く関わっており、みどころもたくさんあります。興味深い円覚寺はじっくりと廻りたいものですが、重要なポイントも見逃さないようにしましょう。

データとコース

  • 宗派 臨済宗円覚寺派
  • 山号寺号 瑞鹿山円覚興聖禅寺
  • 建立 弘安5年(1282年)
  • 開山 無学祖元(仏光国師)
  • 開基 北条時宗(第8代執権)
  • 本尊 宝冠釈迦如来坐像
  • 拝観料 大人500円
  • 問合せ 0467-22-0478
  • URL 円覚寺

①白鷺池 → ②総門 → 
③三門 →  ④仏殿 → 
⑤洪鐘・弁天堂 →  ⑥法堂跡 →
⑦唐門・方丈・庭園 → 
⑧妙香池 → ⑨舎利殿 → 
⑩如意庵 → ⑪仏日庵(開基廟) →
⑫白鹿洞 → ⑬黄梅院 →
⑭帰源院 → ⑮選仏場・居士林→
⑯龍隠庵 → ⑰松嶺院
(以下、時間があれば)
⑱北参道沿いの富陽庵、白雲庵、雲頂庵
などを訪ね北鎌倉駅へ

円覚寺を一回り

偃松橋と鎌倉街道

 北鎌倉駅の東口(円覚寺口)の改札を出ると、すぐ左手に円覚寺の総門に登る石段前に出ます。その前に右手の横須賀線を渡り、小さな石橋を渡ります。この橋は偃松橋えんしょうきょうといって、鎌倉時代から続く、石橋です。いきなり鎌倉時代にタイムスリップ!
 

偃松橋と白鷺池
鎌倉街道側 左の石標には明治三十九年(1906年)とある 

 鎌倉街道のバス通りまで来て振り返ると、右手に「大本山円覚寺」の石標、左手には石を五段に重ねた石塔、通称五山石があり、正面の踏み切りの向こうに円覚寺の遠景が見える・・・と、思ったら騒音と共に横須賀線逗子行きの電車が通っていきました。

2023年4月23日 鎌倉街道から円覚寺を望む 左に五山石 右に円覚寺石碑 横須賀線が通る
五山石
大本山円覚寺碑

白鷺池と馬道

  • 白鷺池 円覚寺を開いた無学祖元(仏光国師)が中国の宋から渡来した時、八幡様の神霊が白鷺となって先導し、この池に降り立ったのでこの名があると伝えられています。白鷺池とそこにかかる小さな石橋の偃松橋えんしょうきょうは鎌倉時代からあるものです。
白鷺池 2017/4/7
白鷺池と偃松橋 2023/6/1
  • 横須賀線が境内を横切る 明治22(1889)年に東京と軍港横須賀とを結ぶための「軍用鉄道」として横須賀線が敷かれたとき、白鷺池が削られ境内を線路が横切ることとなりました。明治43(1910)年には鎌倉街道も境内を横切り、車が通りようになりました。

 現在は線路の向こう側が円覚寺境内という形になっていますが、実は本来は振り返って池の際を走る道(鎌倉街道)の向こう側に見える石垣までが円覚寺の境内でした。まず、境内に入る前に、本来の円覚寺の寺域を確認するため、車に気をつけながら道路を渡り、バスの駐車場の裏手の石垣の外の道に行ってみましょう。

  • 馬道うまみち 昔の鎌倉街道(山ノ内道)は、今のバス通りのように直線だったのではなく、石垣の外側を通っていました。円覚寺の境内は道に出っ張っており、北と南に冠木門かぶきもんがあって、そこを入るには馬から下りなければなりませんでした。石垣の外が馬に乗ったまま通ることのできる「馬道」でした。

 北門があったところには現在は交番(だった)建物があり、石垣のそばには小さな「海軍要塞地帯」の石碑があります。ここからはこのブログの、北鎌倉・鎌倉街道と裏道を歩くで取り上げています。円覚寺参拝を終えたらご覧ください。

総門

2017/12/1
  • 春の円覚寺 総門下
桜と海棠 2017/4/7
山茱萸 2018/3/14

 総門に上がる石段の脇の植え込みにみかけた山茱萸さんしゅゆの花。
 左は桜の下で海棠かいどうが咲いている。

  • 秋の円覚寺 総門下
2017/12/1
2017/12/1

 石段の上の総門には、土御門つちみかど天皇(在位1464~1500年)の筆跡による「瑞鹿山ずいろくさん」の扁額へんがくが掲げられています。「瑞鹿山」は円覚寺の山号です(白鹿洞の項を参照)。現在の境内はここから始まります。総門はかつての冠木門かぶきもんの一部を使っているそうです。

2023/4/23

 総門をくぐり、受付で入山料を納め、さらに石段を登るといよいよ山門が見えてきますが、その前に右手のお手洗いで用を済ませておきましょう(余計なお世話かもしれませんが)。

山門への石段前 2023/3/30

石段を登らず左に行くと円覚寺幼稚園前を通って北に向かう山道に向かいます。途中、いくつもの塔頭があります。また広場を右に行けば、洪鐘の登り口、洪鐘道にでます。ここではまず石段を登り、三門に向かいましょう。

三門

 「円覺興聖こうしょう禅寺」の扁額のかかる三門は、江戸時代の天明年間(1781~89年)、円覚寺再興に力を尽くした第189世住持誠拙せいせつ周樗しゅうちょの時に再建されたものです。扁額は、鎌倉時代の伏見天皇(在位1287~1298年)の筆によるものです。
 現在の三門は江戸時代に再建されたものですが、禅宗様の建築様式(舎利殿と同じ)を守っていることがわかります。三門のすばらしいところは、関東大震災で仏殿はじめ他の堂宇が倒壊したにもかかわらず、残ったことです。

  • 三門とは なお「三門」というのは、禅宗寺院であるためで、その他のお寺では「山門」と書きます。お寺は中国で山の中に造られたので、必ず「山号」があり、お寺にはいる門も山門といいました。禅宗寺院は座禅道場として造られたのが始まりなので、悟りの三つの境地である「空、無相、無作」に至る為にくぐる門、という意味で「三門」と書きます。三門の二階には諸仏が祀られています。
三門の柱
三門の木組み
三門の木組み

仏殿

仏殿 2023/3/30

 大光明宝殿の扁額は後光厳天皇(在位1352~1371年)の筆跡です。この仏殿はかつては茅葺きだったのが関東大震災(1923)で倒壊し、昭和39年(1964)に鉄筋コンクリート造で再建されましたが、禅宗様の建築様式に従って建造されています。仏殿が使えなかった時期には、左手にある選仏場が仮の仏殿とされていたそうです。
 ご本尊宝冠釈迦如来坐像も何度か火災にあい、頭部だけが鎌倉後期のもの、身体は江戸時代の寛永2(1625)年に補修されました。

本尊宝冠釈迦如来坐像

天井には前田青邨画伯と守屋多々志画伯の合作による雲竜図が描かれています。

円覚寺仏殿天井

ある日の仏殿前

円覚寺幼稚園の子供たち

洪鐘・弁天堂

 仏殿の参拝が終わり、右手に向かい「浴場」の跡地を通って右手に一句と「洪鐘道、これよりおほがねみち」とある小さな石の道標に出ます。その急な石段を登っていくと鐘楼とその前の弁天堂があらわれます。

洪鐘道の碑
洪鐘への石段
  • 国宝洪鐘 この洪鐘おおがねは鎌倉時代の正安3(1301)年に鋳造されたもので、高さが2m60cmあり、関東地方で最大を誇り、国宝に指定されています。北条時宗の子息で第9代執権となった北条貞時が父の志を継いで造りました。鎌倉では大船の常楽寺、山ノ内の建長寺の鐘と並んで三大名鐘とされ、造られた時の姿を現在に伝えています。銘文には鋳物師物部もののべ国光の名とともに、寄進をした人が1500人に及んだことなどが記されています。
2023/12/8

 洪鐘から谷の向こうを眺めると、東慶寺の甍がよく見えます。東慶寺は北条時宗の夫人、覚山尼の創建ですから、夫婦で向かいあっていると言えます。晴れていれば、富士山が右手の方に見えます。

東慶寺を望む
弁天堂

洪鐘と江ノ島弁財天の伝説

 執権北条貞時は、父時宗の意志を継いで、円覚寺に梵鐘を鋳造しようとしました。しかしうまくいかず、二度も失敗してしまいました。そこで江ノ島に参籠して弁財天に祈願したところ、弁財天が現れて鋳造の手順を伝授、それに従ったところ、見事に大きな鐘を鋳造することができました。そこで貞時は江ノ島から弁財天を勧請して大鐘の隣に弁天堂を建立しました。
 後に、江ノ島の弁財天が60年に一度、円覚寺の弁天堂を訪ねるときに、ご開帳する祭が行われるようになりました。正式には「洪鐘弁天大祭」といわれる祭は、伝承の通り、60年に一度の庚子の年に行われてきました。
 最近では2020年が庚子に当たっていましたが、コロナ禍のために延期となり、ようやく2023年10月29日に行われました。 → 最新の円覚寺・洪鐘祭のページ をご覧ください。

 弁天堂の右手には、弁天茶屋というお休みどころがあります。ここまで登ってきた人だけのごほうびですね。メニューは抹茶:750円、こぶ茶:650円、ゆず茶:650円、甘酒:500円、コーヒー:450円、ソフトクリーム:400円、白玉小玉+お茶:700円、などなど。かわいらしいメニューがありました。

法堂跡

円覚寺法堂跡

 仏殿と方丈の間に、樹木の茂った箇所があります。ここにはもと、重要な建物だった法堂はっとうがありました。法堂とは禅宗寺院で住持が説法をする重要な場でした。鎌倉時代の末、執権北条高時は、父の北条貞時の十三回忌にあたる元亨三年(1323)に法堂を建立し、直指堂じきしどうと命名しました。円覚寺が創建されてから約四十年後のことでした。これによって円覚寺は門、法堂はもちろんのこと、方丈・華厳塔・仏日庵なども揃い寺院の諸建物がことごとく整えられました。

  • 再建されなかった法堂 しかし、円覚寺は幕府滅亡後の応安七年(1374)の大火で全山が焼亡するという災難に見舞われました。法堂建立から焼亡までの約50年間が円覚寺の寺勢の最も繁栄した時期だったといえます(法堂跡の説明版による)。法堂はなぜ再建されなかったのでしょうか。それには深い事情がありそうです(円覚寺の歴史の項を参照)。
  • なんじゃもんじゃの木 法堂の跡地の木々の間にさまざまな季節の花を見ることができます。樹木の中に珍しい「なんじゃもんじゃの木」があり、5月には白い花をいっぱいに咲かせます。なんじゃもんじゃの木は俗称で、和名は「ひとつばたご」といい、大変珍しい樹木です。東京の神宮外苑の絵画館前にもあります。
2023/12/8 晩秋の発頭後 方丈より

唐門・方丈・庭園

唐門

 安土桃山風の唐破風からはふの屋根を持つ唐門(勅使門)の脇の入り口から入ると、柏槇びゃくしんが目に入ります。開山の無学祖元が植え、約8百年の樹齢を重ねています。また百観音は、百体の観音像を置き、百ヶ所の霊場巡りと同じ功徳を得られるとされています。

  • 方丈とは 方丈は本来は住職の居住する一丈四方の簡素な居室、という意味でしたが、寺院の規模が大きくなるに従い、巨大化し、現在は「大方丈」といわれ、僧侶の居室ではなく寺院の行事の行われる建物となっています。円覚寺でも法事や坐禅会、夏の「円覚寺夏期講座」、11月の宝物風入れなどの会場とされています。方丈の裏手の庭園は心字池をもつ禅宗庭園です。
無学祖元招来の柏槇 鎌倉市指定天然記念物
  • 庭園と円覚寺裏山
庭園と方丈

 円覚寺の方丈裏の庭園は、心字池を中心に、石庭を配置し、後背の六国見山を借景とした典型的な禅宗庭園です。

2023/12/8

妙香池

2023年3月30日

 さらに進むと左手にもう一つの池が見えてきます。創建時からある池ですが、最近整備され、かつての姿を復元しました。池の向こうに見える岩を虎頭岩ことうがんといいます。

  • 境致けいち 禅宗寺院では、建物・池・岩石・墓石・書画・仏像など、そこに臨むと心が澄むものや場所を特に境致(けいち)と定め、大切にしています。妙香池や虎頭岩は境致の例です。普通に使う「境地きょうち」という言葉もここから来ているのですね。境地は寺社巡り、特に禅宗寺院を訪ねる際の基礎知識として知っておくといいでしょう。
2023/12/8 左に妙香池

舎利殿

円覚寺舎利殿 2014/11/2 宝物風入れ

 舎利殿は、円覚寺の中の建物としては唯一の国宝とされ、日本史の教科書に鎌倉文化の代表として説明されていました。かつては弘安8(1285)年に建造された、鎌倉に唯一残る鎌倉時代の建築である、とされてきたのです。しかし、研究が進んだ現在では、舎利殿は室町時代初めの建造と考えられるようになっています。
 また舎利殿はもともと円覚寺にあったのではなく、太平寺という寺の本堂だったことも判っています。ただし、舎利殿がよく鎌倉時代の唐様(禅宗様式)を伝えている代表的な建築であるという価値は変わりません。

  • 舎利殿とは 仏牙舎利といわれた釈迦の遺骨の一部を納めるお堂のことです。インドや中国ではお寺に必ずあったようです。
  • 円覚寺舎利殿の来歴 円覚寺の舎利殿も仏舎利が安置されていますが、この仏舎利は三代将軍源実朝が宋に渡って招来しようとしましたが果たせず、やむなく使者を派遣して宋の能仁寺から贈ってもらったものでした。もちろんこの頃は円覚寺はまだありませんから、実朝が鎌倉の十二所に創建した大慈寺(現在は廃寺)に安置されていました。ところが、弘安8(1285)年に北条貞時が北条一門の守護のために円覚寺に遷したのです。そのときはまだこの建物ではない舎利殿に納められていたようですが、後に火災で失われ、室町時代に西御門にあった太平寺が滅亡したとき、その本堂をこちらに移築して新たな舎利殿としました。それが現在の舎利殿です。 
禅宗様式
舎利殿正面

 現在の舎利殿は開山堂が正式な名称とされ、裏山には開山無学祖元の墓塔があります。管理している塔頭の正続院は、禅僧の修行の場になっていますので、私たちが立ち入ることは出来ません。一般公開は正月三が日と秋の宝物風入れ(11月上旬の3日間)の時だけです。

増補 鎌倉の古建築 (有隣新書55)
有隣堂
関口欣也(横浜国大名誉教授)著。建築遺構や指図・古絵図類の調査をもとに、近年の発掘調査も活用しながら、鎌倉郡衙がおかれた古代から江戸末期までの各時代の建築を論述し、その具体像を浮き彫りにする。2002年刊

如意庵

 如意庵は仏日庵の右手前にある塔頭ですが、残念ながら拝観はできません。ここにあげた写真は、かつて庭先まで入ることができた時期に撮したものです。

 如意庵の門の左手からは、春の山桜が満開の頃は素晴らしい景色を望むことができます。

2023/3/30
仏日庵の屋根
六国見山に続く尾根

晩秋の如意庵

如意庵前 2023/12/8

仏日庵

 北条時宗の廟所を守る塔頭であり、遺骨はお堂の下に納められているといいます。鎌倉でも廟所が作られているのは特別な例で、ここには時宗の子の北条貞時、孫の北条高時も葬られており三人の像が並べられています。
 茅葺きの見事な屋根を持つお堂は江戸時代の文化8(1811)年に改築されたものです。客殿には延命地蔵が安置され、庵内には川端康成の小説『千羽鶴』に出てくる茶室烟足軒えんそくけん、大佛次郎寄贈の梅、魯迅ゆかりの木蓮やめずらしい多羅葉(葉書の木)などがあります。

抹茶を頂けます

白鹿洞

 円覚寺の山号を瑞鹿山というのは、無学祖元がこの地に開堂した日に、一頭の白鹿がこの洞窟から現れて、その説法を熱心に聞いていた、という話に因ります。仏日庵を出て左に向かい、右手の山側を見ると、「白鹿洞」という標識と説明版があります。
 3月末にここを訪ねると、見事な山吹の花が迎えてくれます。

2023/3/30

黄梅院

2023/3/30

 黄梅院おうばいいんは山号を伝衣山でんねさんという。北条時宗夫人の覚山尼(東慶寺の開山)が時宗の菩提を弔うために建立した華厳塔の地に、後に夢窓疎石(正覚国師。瑞泉寺の開山)の塔所として建立された塔頭です。華厳塔というのは三重の塔であって、鎌倉末期の円覚寺絵図には描かれていますから、確かにあったに違いないのですが、残念ながら現在はありません。
 黄梅院は室町時代に足利将軍家と鎌倉御所(公方)の手篤い保護を受けて、夢窓派の拠点となりました。仏殿にある夢窓国師像は重要文化財となっている貴重な木造です。黄梅院が室町幕府将軍家の足利幕府と関係が深かったことは、今も仏殿の屋根には「二つ引き両」の足利家の家紋が軒瓦に見ることができるので判ります。円覚寺の寺紋は北条氏の「三つ鱗」ですが黄梅院だけは違っています。

2023/12/8
  • 武藤山治が建てた武山堂 華厳塔があったのは、庵の最も奥まったところですが、現在はその手前に観音堂があります。この観音堂は昭和の実業家武藤山治(カネボウなどの経営し紡績王といわれた)が建てたもので、その姓名から「武山堂」と名付けられています。武藤山治は言論人、政治家(衆議院議員)でもあり、特に昭和9年、時の政界を巻き込んだ疑獄事件「帝人事件」を告発したことで知られています。彼は北鎌倉に別荘があり、東京の新聞社に出社しようとした昭和9年3月9日朝、北鎌倉駅に向かう途中で暴漢に射殺されました。犯人も自殺し、その背後関係は分からず、未解決のまま終わっています。
武山堂

帰源院

帰源院 2017//3

 黄梅院まで行ったら、右手の続灯庵は見学できませんので、あとはもどります。洪鐘登り口の前をもどり左に入って登っていくと、塔頭のひとつ、帰源院につきます。
 帰源院は、円覚寺第38世で永和4(1378)年に示寂した仏恵禅師傑翁けつおう是英ぜえいの塔所です。中興開祖は154世で元亀2(1571)年寂の奇文禅才、中興開基は小田原の戦国大名北条氏康。質素な本堂には中央に開祖無学祖元の木像と右に第17世大川だいせん道通どうつうの木像が並んでいます。いかにも禅道場らしい、質素なつくりです。帰源院は公開されていませんので、拝観は別に申し込まなければなりません。

  • 夏目漱石と『門』 帰源院は夏目漱石が参禅し、その代表作『門』の舞台となったことで知られ、本堂内には漱石が住職に宛てた手紙が額装され、本堂前には「仏性は白き桔梗にこそあらめ」の句碑が建てられています。毎年4月29日の漱石の命日と年末の二度、「漱石を偲ぶ会」が開催されています。帰源院には鈴木大拙(禅を世界に紹介した仏教学者)や島崎藤村も滞在しています。
2023/12/3

コラム 漱石と帰源院

 夏目漱石が参禅(明治27年12月から翌年1月)し、作品の『門』にその体験を生かしていることで名高い塔頭です。『門』では「一窓庵」として描かれています。
・・・一窓庵は山門を這入るや否やすぐ右手の高い石段の上にあった。丘外れなので、日当たりの好い、からりとした玄関先を控えて、後の山の懐に暖まっている様な位置に冬を凌ぐ気色に見えた。・・・<夏目漱石『門』新潮文庫 p.251>

門 (岩波文庫 緑 10-8)
岩波書店
夏目漱石。「誠の愛」ゆえに社会の片隅に押しやられた宗助とお米は、罪の重荷にひしがれながら背をかがめるようにひっそりと生きている。宗助は「心の実質」が太くなるものを欲して参禅するが悟れない。これは求道者としての漱石じしんの反映である。三部作の終篇であると同時に晩年における一連の作の序曲をなしている。岩波文庫

選仏場・居士林

 選仏場とは「仏を選ぶお堂」という意味ですが、修行僧が諸仏と対峙しながら施策を巡らし、「仏に選ばれる身」となることを目指す、禅の修行の場です。
 永禄6(1563)年の大火で焼失し、現在の建物は元禄12(1699)年に建てられたものです。
 現在は道場としては使われておらず、薬師如来(南北朝時代の作)と、円覚寺百観音霊場の一番として大慈大悲観世音菩薩像が安置されています。

選仏場 2013/1/13

 現在の坐禅道場は隣の居士林こじりんに移っています。東京牛込にあった柳生家の剣道場の建物を昭和3年に移築したものです。

龍隠庵

龍隠庵 2017/2/14

 選仏場と居士林の間を入っていくと塔頭の龍隠庵りょういんあんがあります。人が訪れることは少ないようですが、ここは誰でも入ることができ、また小高いところにあるので円覚寺全景を見るのにも適している、おすすめの箇所です。
 石段を登って行くと、普通の家かと思うような本堂があり、その右に本尊がおられます。障子が閉まっているかも知れませんが、まずは合掌してお参りし、お堂の前のベンチに座って境内を一望しましょう。梅の季節が特におすすめです。

龍隠庵から境内 2017/2/14

松嶺院

 塔頭の一つ、松嶺院は4月の牡丹、秋の萩など花の寺として知られています。また、中山義秀、開高健、清水崑、佐田啓二、田中絹代など、著名人の墓があることでも知られています。オーム真理教を追求して教団によって殺害された坂本堤弁護士の一家の墓もあります。なお、拝観料は別に100円が必要です。
 おすすめは何と言っても4月で、よく整備されたコース(一部急な石段あり)に牡丹などが咲き誇ります。なお、墓地の参拝では著名人にプレートがあり判りやすいのですが、あくまで墓地ですので、他のお墓に迷惑にならないよう、敬虔な気持ちで廻りましょう。

その他の塔頭

 円覚寺の塔頭で、一般参観者が立ち入ることが出来ないところを、入口だけ紹介します。門まで行って一礼して中を覗かせていただくしかありません。

  • 寺域の中心にある塔頭
桂昌庵 閻魔大王像 もとは十王堂橋のたもとの十王堂にあった閻魔大王と十王像
  • 北の参道沿いの塔頭

北の参道

雲頂庵前 2023/3/0

 円覚寺参詣の皆さんはほとんど訪れることのないのが、三門前から北に延びる参道です。松嶺院の前から左に入り、石段を登って円覚寺幼稚園の前の細い道を進んでいきます。過ぎ右に塔頭の富陽庵があり、さらに進むと白雲庵、雲頂庵と塔頭が続きます。このあたりも円覚寺の山内ですが、北鎌倉の住宅街に抜ける生活道路でもあります。
 途中は谷の向こうの穏やかな山並を眺めながら進み、雲頂庵の前まで来ると、大船の街並みと晴れていれば富士山が見え、気持ちの良い道です。雲頂庵前から急な石段を降りれば、北鎌倉駅の臨時改札口に出ます。

白雲庵前より台山を望む 2023/3/30
雲頂庵前 2019/4/28

クイズ 境内これどこ?

 円覚寺境内を散策していて目についたものをアップします。どこにあるかは秘密。遊び感覚で、境内一巡の間で探して下さい。

見つからなかった人はトップページから問い合わせてください。

円覚寺の四季

2023/3/30

夏 盆踊り

2023年12月2日午後3時、円覚寺の紅葉を見に行きました。

居士林の前 2023/12/2
龍陰庵
夕日の染まる選仏場
2023年12月9日 円覚寺妙香池
龍陰庵から眺める

2023年12月8日 もう一度紅葉の様子を見に行きました。いずれも11時~12時頃、スマホで撮影しました。

2013/1/13 松嶺院

ガイドブックのガイド

古寺巡礼 東国 (4) 円覚寺
淡交社
中里恒子、足立大進などが執筆。1982年の刊行の定評ある淡交社の古寺巡礼シリーズの一巻。写真、解説文なども信頼が置ける。
鎌倉 円覚寺 photo album OoB photo album
Kindle版写真集。2017年晩秋の円覚寺をとらえた写真集。ガイドブックではないが、秋の円覚寺の雰囲気を味わうには適している。
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