英勝寺

鎌倉唯一の尼寺

 英勝寺は江戸時代の始め、徳川家康の側室であった英勝院が開基となり、寛永13年(1636)に御三家の一つ水戸の徳川頼房の娘で尼となった玉峰清因を開山に迎えて創建されました。鎌倉時代にさかのぼるわけではない、割合新しい寺ですが、江戸時代には「水戸様の尼寺」と言われ、他の寺院とは異なる特別なお寺として、鎌倉の中でもよく知られていました。明治時代になり、徳川家の保護がなくなってからは急速に衰え、現在はかつての栄華は見られませんが、今も尼寺として独特の風情を残しているところです。鎌倉五山などの禅寺とはまた異なった世界を感じ取ることができるでしょう。

  • 宗派 浄土宗
  • 山号 東光山
  • 開山 玉峰ぎょくほう清因せいいん(徳川頼房娘)  
  • 開基 英勝院(家康側室お勝の方)
  • 創建 寛永13年(1636)
  • 本尊 阿弥陀如来(徳川家光の寄進)
  • 〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目16−3
  • 0467-22-3534
  • 鎌倉駅から徒歩10分
  • 拝観料 大人 300円  高校生 200円  小学生以下 100円
  • 仏殿、楼門、祠堂の拝観は別途、相談の上支納が必要。

英勝寺の見どころ

通用門と総門

 寿福寺の前を右手に横須賀線を見ながら進むと、すぐに英勝寺の総門の前に至ります。この門は通常、閉まっていて入れません。隣に太田道灌屋敷跡の碑があるのを見た上で進むと、英勝寺の通用門にでます。

英勝寺 総門
太田道灌屋敷跡の碑

・総門 道路に面している総門には三葉葵の紋が見られますが、通常は閉まっており、英勝院の命日など特別なときのみ開けられます。もとの総門は関東大震災で倒れ、民有になった後、大正15年近くの浄光明寺の山門として使われています。

・太田道潅の屋敷跡 この地は、室町時代には関東管領(執事)上杉氏の家臣であった太田道灌の屋敷跡とされています。太田道灌(1432~86)は室町中期の武将で上杉定正の執事でした。関東管領の上杉氏は扇ヶ谷に屋敷があり、扇ヶ谷上杉と言われます。太田氏が扇ヶ谷に与えられた屋敷がこの地でした。なんと言っても太田道灌は1457年に最初に江戸城を築いたことで有名です。また、狩りに出て雨宿りした農家で蓑を借りようとしたとき、女が出てきて「七重八重花は咲けども山吹は実のひとつだに無きぞ悲しき」と答えたことの意味が分からず、恥じ入ったという説話もよく知られています。

 通用門の扉に立派な寺門があります。よく見ると、葵の紋の上に桔梗の紋がのっています。言うまでも無く葵の紋は徳川家、この場合は関係の深い水戸徳川家の家紋であり、桔梗は太田家の家紋です。両家の家紋を組み合わせているわけです。さてその太田道灌と徳川家が一体どんな関係があったのでしょう。それは後で説明するとして、まずは通用門の脇の潜り戸から入り、受付で拝観料を納めましょう。

仏殿

仏殿(裏側)

・軒に十二支がいる仏殿 受付から見て右手に見える薄緑色の印象的な屋根と裳階があるのが仏殿です。この建物は江戸時代初期の寛永20年(1643)に棟上げした貴重なもので、県の重文となっており、裳階つきの寄せ棟作りで、三間四面で板壁、土間、花頭窓など禅宗様式も取り入れれていますが、直線的な屋根、繁棰しげだるきがほどこされています。また屋根を支える蟇股かえるまたには四面に三匹ずつ、合計十二の動物、つまり十二支の彫刻が見られます。ぐるりと一回りしてご自分の干支を探してみてください。

・仏殿の内部 正面に回ると小さな窓から仏殿の内部を拝観することができます。仏殿の内部は、浄土宗の寺院らしい、極楽浄土を顕した造りになっており、

 通常は中には入れませんが、次の写真は朝日アウトドア鎌倉寺社めぐりで団体鑑賞させていただいたときのものです。

・釈迦三尊像
 ご本尊の阿弥陀如三尊像と、脇陣左右に中国の浄土教の始祖である善導と、日本の浄土宗の開祖法然の像が安置されています。
 本尊は、英勝院を慕っていた三代将軍徳川家光の寄進した、来迎印の阿弥陀如来立像と脇侍の観音菩薩・勢至菩薩の木像阿弥陀三尊像です。

・極楽浄土の現出 
 天井には龍、天女、板壁上部に鳳凰、飛天、蓮など極彩色で描かれ、極楽浄土が現出させれているのを見ることができます。

・善導と法然 脇陣左右に中国の浄土教の始祖である善導大師(左)と、日本の浄土宗の開祖法然上人(右)の像が安置されています。この寺が念仏を唱えることで極楽浄土を願う、浄土宗であることが分かります。

・仏殿の蝉 仏殿の拝観を終わり、直線的な屋根の軒下を改めて見上げました。そして何気なく足下を見ると、夏ではないのに蝉がとまっていました。しかしよく見ると金具でできたものです。これは、この仏殿の周りでは、蝉の声しか聞こえない、静寂が求められることを意味しているそうです。

山門

 仏殿と同じく屋根は反りがなく直線的で、正面の扁額は後水尾ごみずのお天皇の筆によるとされています(右図)。
 現在は立派に立っている山門ですが、実は関東大震災で倒壊し、その後、その建築資材は二束三文で売られてしまい、寺を離れて鎌倉小町の個人宅の門に利用されてていました。英勝寺や関係者が寄付を集め、平成13年に買い戻し、ようやく平成23年に元の場所に再建することができました。
 江戸初期の貴重な寺院建築が再建されたので、現在は国の重文の指定を受けています。

・山門の内部の仏像 山門の上には阿弥陀如来坐像と両脇侍、十六羅漢像(一部は欠けている)も創建当時どおりに戻されています。通常は拝観できませんが、朝日アウトドア寺社めぐりの際に、二階に上がることが許され、仏様と内部の構造を見ることができました。次の写真はそのときのものです。

英勝寺山門内の諸仏

唐門

唐門
  • 山門と仏殿の間の山側に、小さな唐門があり、そこから英勝院を祀る祠堂に向かいます。
  • 唐門
    祠堂の入り口に当たる唐門は唐破風からはふ平入りの門で、小さいながら繊細な彫刻が施され、軒には「吹き寄せ垂木」という技法を用いた芸術的な価値の高い建造物です。

英勝院の祠堂

 開基の英勝院(お勝の方)の廟堂(お墓)である祠堂しどうも通常は公開されていませんが、受付に申し出て開けていただくと拝観することができます。そこには規模こそ小さいものの、日光東照宮と同じ江戸初期の美しい装飾が施された祠堂を見ることができます。

祠堂前から唐門と仏殿
祠堂前の侘助

ここにも英勝院(お勝の方)が太田家の出であったので、桔梗の家紋を見ることができます。

 祠堂は、英勝院を祀るため、その没した翌年の寛永20(1643)年に将軍徳川家光によって建てられました。現在は保存のため鞘堂さやどう(覆い堂)に覆われており、三間四面、宝形造ほうぎょうづくり、繊細な斗栱ときょう(組み物)の見られる、総金箔の廟堂びょうどうです。元禄年間に修理され、日光東照宮と同様の廟堂建築として大変貴重です。祠堂の裏には水戸光圀が造った笠付き角柱の英勝院の墓石が建っており、その背後のやぐらには石造の阿弥陀三尊像が安置されています。

祠堂背後の阿弥陀仏

聖観音菩薩と太子堂

 山門を出て右手に、山肌を削った平場があり、そこに聖観音菩薩と聖徳太子を祀る小さなお堂があります。ここに上がると、祠堂の背後の阿弥陀如来の石仏を拝観することができ、また山門や仏殿などの建物の屋根を観察することができます。

太田道灌の洞窟

 山門左手奥にある小洞窟には、太田道潅以下三代の霊を祀る三霊社権現が安置されています。なお道灌の墓は伊勢原に胴塚と首塚があります。英勝寺裏山には太田道灌の供養塔と言われる石塔が今も残っています。寿福寺の裏から源氏山に上がるコースの途中に、気をつけながら登ると見つけることができます。

袴腰鐘楼

2017/5/29

 英勝寺の鐘楼は、めずらしい袴腰はかまごし鐘楼というもので、鐘の全部が見えないようになっていますが、かえって鐘の音が袴腰の内部で反響して、大きく聞こえるそうです。
 鐘は寛永20年に鋳造され、著名な儒学者である林道春が銘文をつくっています。
 関東大震災によって倒れてしまい、梵鐘は三浦の福本寺に移されていましたが、昭和32年に鐘楼が再建され、梵鐘も戻されました。
 今も大晦日には鐘を撞くそうですが、どんな音がするのか、まだ聞いたことはありません。機会があれば、聞いてみたいものです。

袴腰鐘楼

英勝寺の緑

仏殿・山門のまわり

 通用門を入ってすぐ左手にあるひいらぎは、あまり見かけない大木です。葉の形が違うので柊とは思えませんが、下の方の若木の葉を見るとまちがいなく柊だとわかります。
 その他、仏殿の周りにはいつも季節の花が咲いており、通用門には見頃の花の名前が出ますので参考になります。
 さてほかに珍しいのは、祠堂前の侘助わびすけでしょうか。これだけ大きな侘助はあまりないのでは。さらに山門を抜けて右手の山際に、ひときわ大きく育っているのが唐楓とうかえでで、これも珍しいもので、鎌倉市の天然記念物に指定されているそうです。

・唐楓

姫御殿跡の竹林

 かつて尼住持の住居だった姫御殿のあったあたりは立派な竹林となっています。季節ごとの草花がいつも美しいお寺です。

2013/10/25

・竹林を抜けて、庫裏前に戻る途中

2013/11/10

英勝寺の歴史を知る

「水戸様の尼寺」

 鎌倉時代に創建された寺院が多い鎌倉の中で、英勝寺は比較的新しくできたお寺です。江戸時代の始め、徳川家康の側室であった英勝院(お勝の方)が開基となり、寛永13年(1636)に御三家の一つ水戸の徳川頼房の娘で、尼となった玉峰清因を開山に迎えて創建されました。それ以後、代々の住持は水戸家から迎えたので、「水戸様の尼寺」と言われていました。現在も鎌倉で唯一残る尼寺です。

 徳川家康が江戸城に入った時、江戸城築城で名の知られた太田道灌の子孫がこの地に住んでいると知り、その当主を招きましたが、あいにく当主は京都に行っていたので、娘のお梶(初名はお八とも)が代わりに江戸城で家康に面会しました。そのとき家康は13才のお梶を気に入り、側室に加えたのです。その後、家康の寵愛を受け、関ヶ原の戦場にも同伴しました。その戦いで勝利を収めた家康は、お梶をお勝と改名させました。お勝はその後も家康を助け、重要な働きをしたので、後にお勝が出家して尼となったとき、その実家の土地に英勝寺を創建することを許したのでした。
 お勝の方の名は、今も寿福寺前に残る「勝の橋」(十橋の一つ)に見られます。

コラム  徳川家康が愛したお勝
 家康は愛妾お梶を大変かわいがり、戦場にも同行させた。お梶はときには馬にまたがり戦場に出たと言う。大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすことができた家康は、縁起を担いで「お勝」と改名させた。その後、お勝は家康の子(女子)を産んだが、夭逝してしまった。落胆するお勝を慰めるため、家康は九番目の我が子の養母とした。その子が成長して初代水戸藩主徳川頼房となったので、お勝は水戸藩主の養母という立場となった。元和2年(1616)、家康が亡くなると、お勝は出家し、英勝院と称し、太田家の跡地に英勝寺を創建し、今もその立派な廟所が残されている。

水戸光圀の英勝寺滞在

 江戸時代は代々御三家の水戸家の保護を受けて水戸御殿とも言われ、広い寺域を持つ大寺院でした。 水戸黄門として知られる徳川光圀は、寛永5(1628)年、水戸藩初代の頼房三男として江戸に生まれ、寛文元(1661)年第三代藩主となりました。光圀から見れば、父の養母のお勝の方が創建したこの英勝寺をことのほか大切に思ったようです。
 延宝三(1674)年に鎌倉を訪ね、英勝寺に七日間滞在して鎌倉の諸寺社を参拝して周り、後に、『新編鎌倉志』をまとめて、貞享二(1685)年に刊行しました。同書は江戸初期の鎌倉の様子を伝える、貴重な資料になっています。
 ところで光圀と言えば、早くから歴史研究を自ら行い、水戸に彰考館を開設して『大日本史』を編纂するため、家臣を全国に派遣したことで知られており、それが後に黄門の諸国漫遊の伝説のもととなったといわれています。実際には光圀は水戸と江戸以外で行ったことがあるのはこの鎌倉だけで、全国を漫遊したというのは全くのフィクションです。
 『新編鎌倉志』には江戸初期の英勝寺の絵図も記載されてています。それにはどう書かれているのでしょうか。

 現在の英勝寺とはかなり様子が異なります。現在の建造物が該当するのは次の通りです。
 ①総門  ②鐘楼  ③仏殿  ④山門  ⑤唐門  ⑥祠堂  ⑦庫裡
 それによると当時の英勝寺の境内は、現在の横須賀線の向こう側まで広がっていたことが判ります。

横須賀線開通で寺域が削られる

 実は、明治22年、横須賀線建設のため、寺の前の土地が削られ、総門も現在の場所に移されたのです。さらに関東大震災でその大半が倒壊し、かつての規模は失われました。
 また寺の中心がずっと西の奥、現在の竹林のあたりだったことが分かります。現在の竹林一帯は、水戸藩のお姫様が尼となって住むところだったので「姫御殿」と言われていたのです。

 北鎌倉の円覚寺が、横須賀線を通すので、白鷺池が削られたというのはよく知られた話ですが、この英勝寺も、近代化に伴って大きく変貌を余儀なくされた寺だったのです。さすがの「水戸様の尼寺」も明治国家の軍拡路線には勝てなかったということでしょうか。

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