寒川神社

 鎌倉から離れた、茅ヶ崎の北に当たる寒川に鎮座する寒川神社は、昔の相模国の一宮で社格も高く、鎌倉周辺の寺社巡りでは欠かせないところです。また湘南地方の初詣の神社としては鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮に次ぐ人出となります。

 JR茅ヶ崎駅から相模線に乗り換え、宮山下車。相模線は本数が少ない(朝夕以外は1時間に2本程度)なので注意してください。
 もう一つ、相模線の乗降は、ドアのボタンを自分で押さなければなりません。忘れないように。
 宮山から神社までの道については下に記載してあります。

 寒川神社(寒川大明神)は、現在は「八方除はっぽうよけ」(ア)や家内安全・交通安全を祈願する神社、あるいは初詣で賑わい、結婚式などを執り行う神社として人気が高く、参詣者数も県内指折りに多いところですが、実は、歴史的には県内で最も古く、ということは鎌倉の神社(最も古いのが荏柄天神だとして、鶴岡八幡宮は鎌倉時代ですし、鎌倉宮は明治の初めに過ぎません)よりもずっと古い歴史を有しているということになります。
(ア)八方除 八方とは東(卯)・西(酉)・南(午)・北(子)の四方と、東北(うしとら)・東南(たつみ)・西北(いぬい)・西南(ひつじさる)を合わせた八方位のことで、寒川大明神に記念することで地相・家相・方位・日柄・運勢などでの禍ごと・災難をこの八方位で除くことができるという信仰です。八方除の神徳をもつのは全国でも寒川大明神だけとされています。

太鼓橋

相模国一宮 国幣中社寒川神社

 太鼓橋は1892(明治25)年に造られましたが、老朽化のため2011(平成23)年に架け直されました。

三の鳥居

三の鳥居は桧造り明神鳥居で1990(平成2)年に建てられました。二の鳥居と一の鳥居は南に延びる参道にあります。

地震で倒れた一の鳥居
 現在は海側の参道入り口に立つ一の鳥居は、寛永8年(1631)に立てられましたが、安政二年(1855)の江戸大地震と大正12年(1923)の関東大震災で二度倒壊してしまいました。もとは高さ3.3m、柱間3mの明神鳥居でした。それがこの一部です。

神門

 2025年のねぶた「弁天様と幸運の蛇」が飾られています。(1月~2月初め)

 神門には2001年から、毎年1月1日元旦から2月3日の節分まで「迎春ねぶた」を掲げるようになりました。毎年本場の青森で組み立て、トラックで運んできます。今年のねぶた飾りは青森ねぶた師の諏訪まことさんの制作で、横幅9.0m、高さ2.7m、LED電球150球を使用しているそうです。
 神門には東に卯、西に酉、南に午、北に子が方位を表す干支の像があります。1993(平成5)年に落成した新しい建物です。それ以前の神門は現在の脇の出口専用の門として利用されています。

 2020年の神門ねぶた

 2020年2月5日に参拝したら、3日に節分祭が終わった後だったので、ねぶたが役目を終え、撤収されるところでした。毎年、新しいねぶたが飾られるので、正月か節分にはまた来たいものです。

社殿

 関東大震災によって被害を受けたため改修工事が行われ、1928(昭和3)年に修復されました。現在の社殿は平成9年10月に竣工した新しい建物で、神前の拝殿には216人が着席できるようになっています。

ご神木

渾天儀 渾天儀こんてんぎは古くから中国で行われていた天体観測用の器具で、星の位置や運行を観測するために用いました。これはそのレプリカです。天空を支えると言われる龍が四隅に配置されています。

神馬舎 神門の左手にある神馬しんめ舎1975(昭和50)年に作成された彩色木彫の白馬と猿の像が納められています。白馬は神様の乗物であり、猿はその守護に当たっています。彩色木彫家の平野富山氏の作品で、鞍の彩色が見事です。

「石橋」の像 三ノ鳥居の右に神池がある。池に面して建っている能装束の石像は、1970(昭和45)年から毎年8月15日に開催される「相模薪能」の20回目を記念して作成されたもので、能「石橋しゃっきょう」の一場面です。寒川在住の彫刻家原田純成氏の作品。

 神社の裏手にある神嶽山かんたけやまを中心としたしんえ庭園は、長く神聖な土地とされており、一般人の立ち入りが禁止されていましたが、2009(平成21)年に神嶽山神苑として竣工し、同時に方徳資料館が開設されて公開されるようになりなりました。寒川大明神、八方除に関わる民俗資料が展示されています。
 ただし、開園されるのは3月上旬から12月13日まで(月曜休園)で、ご祈祷を受けた方のみが入園可となっているので、自由に出入りはできません。
 八方除ご祈祷には初穂料(3000円から)、神苑拝観料は別に500円が必要です。神苑内には茶屋和楽亭があり、休憩できます。

神苑 入り口

難波の小池 古来より御本殿の真裏に位置し、寒川神社の起源に深く関わりがある神聖な泉として伝えられてきました。一月二日の追儺ついな祭では、この池の水を竹筒に汲んで神前に供えたあと、境内に撒き一切の邪気を祓います。

 神苑は現代の優れた日本造園の造園家として知られる桝野俊明しゅんめい氏(横浜・曹洞宗徳雄山建功寺住職)が設計に参加し、伝統的な庭園に新しい要素も加えたすばらしい池泉回遊式庭園になっています。

 神嶽山

茶屋 和楽亭

方徳資料館 寒川大明神の全国唯一の御神徳である「八方除」についての資料が展示された資料館です。神社の歴史と八方除信仰の歴史を学ぶことができます。中国に始まった方位信仰は日本にも伝えられ、天文・暦法が朝廷で発達し、陰陽師がその知識を活用して、大きな力をもちました。また方位信仰は日本人の日常生活に今でも根強く残っています。

参拝のあとに

 参集殿は結婚式後の披露宴などで使われる他、レストラン、お土産物売り場などがあります。参拝後の一休みに最適です。

三ノ鳥居前

寒川神社さんの鳥居から参道を望む 右に参集殿

 寒川神社には相模線宮山駅から歩くのが最短距離ですが、本来の参道は三ノ鳥居前からまっすぐに伸びる道で、立派な松並木になっており、二ノ鳥居をすぎて、一ノ鳥居までです。そのまま進めば相模線の踏み切りにぶつかり、左の方向に進めば寒川駅に行き着けます。
 本来の寒川神社参拝は、一ノ鳥居から北に向かっているわけです。

これは相模川をまたぐ水道。
参道の中程、左右に立派な石灯籠があり、まもなく二ノ鳥居が見えてきます。

二ノ鳥居

立派な二ノ鳥居

一ノ鳥居

一ノ鳥居
相模線踏み切りから一ノ鳥居を見る

古代の寒川

 寒川神社(寒川大明神)は、現在は「八方除」や家内安全・交通安全を祈願する神社、あるいは初詣で賑わい、結婚式などを執り行う神社として人気が高く、参詣者数も県内指折りに多いところですが、実は、歴史的には県内で最も古く、ということは鎌倉の神社(最も古いのが荏柄天神だとして、鶴岡八幡宮は鎌倉時代ですし、鎌倉宮は明治の初めに過ぎません)よりもずっと古い歴史を有しているということになります。
 寒川の一帯も相模国でも古くから開けており、すでに縄文時代には大集落が生まれていたことが市内の岡田遺跡(ア)の発掘で分かっています。現在は相模川河口から7kmほど離れていますが古代には相模湾の入り江がこのあたりまで入り込んでいたと考えられます。
 古墳時代には豪族が支配していたことが同じ寒川町内の安楽寺境内の大神塚古墳(イ)でわかり、寒川神社の祭神とされる寒川比古命・寒川比女命もこのあたりを最初に開発した豪族が祀る祖先神であっただろうと考えられます。
 (ア)相模川の東側、現在の寒川町岡田で発掘された遺跡で、358の竪穴住居が密集した環状集落が作られ、出土品から相模川・相模湾でのさかんな漁業が行われていたことが判る。全国的にも珍しい、釣手型土器が多数見つかっている。
 (イ)寒川神社南方にある全長約51m、後円部径30m、高さ5mの帆立貝型前方後円墳で、金環・勾玉・鏡などの副葬品が出土(現在神社蔵)している。

相模国一宮

 寒川神社は、古くは5世紀ごろに遡るようですが、奈良時代の765(天平神護元)年、あるいは727(神亀4)年の創建と伝えられ、平安時代の834(承和元)年に再興されたと伝えられ、文献上では『続日本後紀』に846(承和13)年に従五位下に神階が与えられたことが見えています。10世紀に編纂された『延喜式』神名帳に記載されており、いわゆる「式内社」(ウ)の一つであり、相模国では唯一の名神みょうじん大社とされていました。
 (ウ)延喜式内社は相模国では、足上郡の寒田、余綾よろき郡の川勾、大住郡の前鳥、高部屋(高森)、比々多、阿夫利、愛甲郡の小野、高座郡の寒川、大庭、深見、宇都母知、有鹿、石楯尾の13社のみ。
 平安時代から、国ごとに最も重要な神社を「一の宮」とし、国司が赴任するとまず最初に参拝(御幣を納める)して国内の秩序安定を祈願するようになり、鎌倉時代までには二宮・三宮が定められました。

相模国では
 一の宮 寒川神社(寒川)
 二の宮 川勾かわわ神社(二宮)
 三の宮 比々多ひびた神社(伊勢原)
とされ、さらに
 四の宮 前鳥さきとり神社(平塚)
 五の宮 平塚八幡宮(平塚)
といわれるようになりました。
 後に総社とされたのが
 六所神社(大磯)です。

 相模国のこれらの神社にはどこが一宮なのかを争い、それを国司が判定した、という言い伝えがあり、その争いを再現したという行事が国府祭こうのまちとして今に伝えられ、毎年5月に行われます。(別項)

鎌倉幕府と寒川

 鎌倉に幕府を開いた源頼朝も、まず関東一帯を抑えるために、関東諸国の一の宮に対して神田を寄進したり、社殿の造営・修復、流鏑馬などの神事の興行などをこないました。1182(寿永元)年には、妻政子の安産祈願を関東一円の社寺に祈祷していますが、寒川神社には有力御家人の一人である梶原氏の一族、景高を使者とし、幣帛と神馬を献上しています。1189(文治5)年には社寺の修復を寄進し、1192(建久3)年には社寺縁起の提出をもとめています。それをつうじて寒川一帯の有力氏族を掌握しようとしたのでしょう。
 頼朝の有力な御家人であった梶原景時は、この寒川一の宮に所領を有していました。頼朝没後に北条氏と対立し1199(正治元)年に謀反の疑をかけられて鎌倉を追われた後、この一の宮の居館に移り、無実を晴らそうと京都に向かい、途中で東海道の清見潟(静岡市清水)で討ち取られてしまいますが、現在は寒川神社の南約2kmのところにある八幡宮がその梶原景時の居館跡とされています。

戦国時代と江戸時代

 戦国時代に小田原を拠点に相模国を押さえた北条氏は、二代北条氏綱、三代氏康、四代氏政と三代にわたり相模国一の宮寒川神社の社殿再興にあたり、尽力しています。その代々の再建棟札が神社の保管されています。     
戦国時代には関東の覇権を争う大名がこぞって寒川神社に寄進し、武田信玄の寄進した兜も伝えられています。
 北条氏滅亡後、関東一円を所領とした徳川家康は、1591(正19)年、寒川神社に朱印領百石を安堵あんど(土地領有権を保障する)しました。その後も江戸幕府の保護は続き、1740(元文5)年には大規模な修復が行われています。1895(明治28)年に神明造の本殿が落成した際、旧本殿は寒川町倉見の倉見神社に移転され、現在も使用されています。

明治以降の寒川神社

 明治初年の廃仏毀釈は、寒川神社にも及びました。実は古来の神仏習合が進む中、多くの神社に、神社を管理するための別当寺がおかれましたが、寒川神社でも東側に別当寺として薬王寺がつくられ、西側には供僧ぐそう(僧侶であるが神事も執り行う)の活動する神照寺、中之坊、三大坊が立ち並んでいました。これらの寺は、明治維新で廃仏毀釈がにわかに盛り上がった結果、ほとんどが破壊され、現在は南側の西善院だけになってしまいました。
 また、寒川神社の神主は吉田神道(エ)の家元吉田家から代々免状を受けていた金子氏が世襲していました、明治政府のもとで神道は「国家神道」となり、神社は国家の保護を受けるとともにその統制下に入り、世襲神主は排されて政府に任命された宮司が着任するようになりました。旧来の信仰形態はこの激動の中で一変しました。
 寒川神社はその一の宮としての社格の高さから1871(明治4)年に「官幣かんぺい中社」(オ)という序列になりました。神奈川県内で官弊社となったのはこの寒川神社と鎌倉に新しく創建された鎌倉宮(大塔の宮)だけで、いずれも中社とされました。戦後になって新憲法の下で国家神道は否定されましたがら、現在はこのような神社の序列制度はなくなりました。
(エ)室町時代の後期、京都の吉田神社の神主吉田兼倶かねとも(卜部兼倶)が神道に仏教・儒教の要素を取り入れて理論化し、密教に倣った神道儀式をつくりあげ、反本地垂迹説を唱え「唯一神道」とも言われた。江戸時代に幕府に取り入り、全国の神社に神位を授ける権威を認められ隆盛したが、伊勢神宮とは対立し、明治以降は衰えた。
(オ)官弊社とは国家の神祇官から御幣をおさめる神社のことで、官幣大社は春日大社とか、賀茂大社、出雲大社などかぞえるほどしかない。官幣中社はそれに次ぐ社格とされた。官弊社より社格が低いのが国弊社で、地方官が御幣をおさめる神社のこと。官幣社も国幣社もそれぞれ大中小の3等級があった。さらにその下に県社―郷社―村社があった。明治の初めに神社の等級制が定められたときは、鶴岡八幡宮は国幣中社だった。つまり寒川神社や鎌倉宮の方が上位だったことになる。

現代の寒川神社

 1898(明治31)年に鉄道の東海道本線・茅ヶ崎駅が開業すると、駅から離れた位置にあった寒川神社は参拝者が少なくなり、冬の時代を迎えた、といえます。ようやく1921(大正10)年に相模鉄道(現在のJR相模線)が開通しましたが、宮山駅が開業したのはようやく1930(昭和5)年のことでした。宮山駅が新しい参拝下車駅となり、そのころには関東大震災で破損した社殿も復興され、徐々に往時の賑わいを取り戻しました。
 戦後の経済復興とともに、八方除けの信仰は家内安全、良縁、安産、病気平癒などの庶民の素朴な願いと結びつき、寒川神社への参拝者が増え、特に自動車の普及、道路事情の改善によって、車での参拝に便利になり、交通安全の祈願が増えました。寒川神社の歴史の重みと、現代の人々の願望の高まりが加えられて、参詣者の多い神社となったのです。

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