伝上杉憲方墓所と西方寺跡

 極楽寺切通の西側登り口、民家の後ろにひっそりと残る石造物群。七重層塔は上杉憲方の墓と伝えられています。なぜこんなところにあるのでしょうか。説明板によると、ここは西方寺の一部だったとのこと。さらに極楽寺切通を上がっていくと左手に狭い切り通しの急な階段があり、そこを登るとお墓がある。この辺り一帯が、西方寺の跡地とおもわれますが・・・。

 江ノ電極楽寺を下車し、鎌倉方面に戻り、しばらく行って左に曲がれば江ノ電を橋で渡って極楽寺へ。
 もうそこは極楽寺切通の登り口で、左手にお店がある。右側はアパートで、その前に小さな石碑があり「上杉憲方墓所」とある。

 「上杉憲方墓」とある目印の石碑には、側面に大正十二年の銘を読むことができる。もう百年も前に作られたものだ。これを見てもこのアパートの裏に、国指定の史跡があると知って、どれだけの人が気づいただろうか。
 そこを登っていくと、アパートの裏に静かに石塔群が残っている。訪ねる人もほとんどない。

 アパートの裏に、山の斜面を人工的に削って作った平場があり、そこに石塔が並んでいる。ひときわ大きい安山岩製七重層塔そうとうが上杉憲方の墓と伝えられるものだ。その手前に立つ凝灰岩の層塔は、その妻の墓塔だというが、夫のものと比べると、ずいぶんと粗雑な作りだ。そして脇に、凝灰岩製五輪塔が4基、その他五輪塔の残欠が散在している。

伝上杉憲方墓 七重層塔

 上杉憲方の墓と伝えられる安山岩製七重の層塔は高さ約290cm、相輪の頂部を欠いているが、その下部の塔身の四面に、それぞれ仏が彫られている。これは金剛界四仏というらしい。七層の屋根はそれぞれ重厚で、バランスが良い。説明板によると13世紀前半、つまり鎌倉時代の前期の制作と考えられるという。昭和2年に国指定史跡とされたので、この地は現在は文科省の管轄になっている。

 上 凝灰岩製 五輪塔三基
 右 伝上杉憲方妻の墓 凝灰岩製層塔

 上杉憲方のりかた(1335-94)は室町時代の武将であり、鎌倉公方くぼうを補佐した関東管領を務めた上杉氏の当主であり、武蔵国・安房国などの守護なども務めた。この七重層塔は様式から見て13世紀前半とすると、上杉憲方の年代とは合わないが、彼の墓が極楽寺にあると伝えられているため、この七重層塔がその墓と言われるようになったのだろう。また、この付近には、永和5年(1379)銘の彼の逆修ぎゃくじゅ塔(生前供養のための塔)とされる宝篋印塔も存在している(現在は私有地の中にあり公開されていない)。
 いずれもこの付近はかつての極楽寺の塔頭としての西方寺があったところで、墓地のその一部であり、後に西方寺が横浜に移り、近代になって極楽寺切通が拡張されたため、まったく昔の姿を変えてしまい、石造物群と言い伝えだけが残ったということだろう。
 上杉憲方は北鎌倉の山ノ内に居住したので、その子孫は山ノ内上杉と名乗り、後の戦国大名山内氏の先祖となる。この山ノ内氏が開基となったのが明月院である。北鎌倉の明月院には、大きなやぐらがあり、その中にも上杉憲方の供養塔という宝篋印塔がある。あるいは極楽寺切通の伝上杉憲方墓も大きなやぐらの中にあったものが、切通の開通、拡張でやぐらが崩され、墓石群だけが残ったのかもしれない。 → 明月院

 極楽寺切通をしばらく進むと、左手にさらにせまい切通があり、長い階段があります。
 おそらく極楽寺切通が作られ、さらに明治になって拡張されたときにこの小さな切通の石段も作られたのでしょう。石段の途中、左手のくぼみに庚申塔こうしんとうが三基、並んでいます。

2015年1月7日
2025年2月1日

 左の一段と立派な唐破風からはふ付の笠塔婆かさとうばには合掌六手の青面しょうめん金剛と三猿が彫られ、左側に文化十年(1813年)、右側に「えのしま道」とあります。極楽寺切通しが今のような姿になる前に、極楽寺橋のたもとのみちびき地蔵の前にあったそうです。
 真ん中の自然石は先端が欠けた「庚申供養塔」、右の尖頭角柱は正面に「庚申供養塔」、右側面「文化十一年(1814)」 左側面「十一月廿一日」、台石に「講中」とあります。

向こうに見えるのが成就院のある山 2014/12/25 

 庚申塔の上に民家があります。さらに階段を上ると、右手に墓地が広がっています。新しい墓石が多いですが、ちらほらと古い墓石、石塔も見られます。
武田一族の墓地 墓地の右手奥まで進み、切通の崖まで行くと、そこにはおびただしい五輪塔や石仏が並んでおり、その一つに「武田義信一族墓」とあります。武田義信とは甲斐源氏の一族で、鎌倉幕府滅亡の際、極楽寺坂の戦いで新田方と戦い、いずれも戦死したようです。ここがその墓であることは今のところ文献で確かめる事はできていません。

2015/1/7

 上の写真は2015年に撮影しましたが、2025年2月1日に10年ぶりに訪ねたところ、何とこの墓石群が撤去されていました。その事情はわかりません。

2025/2/1
2025/2/1

 ここから、切通の向こう側の成就院がよく見えます。今は深い切通の向こう岸ですが、もとももの切通はこんなに深くなかったようです。

切通の向こう側 成就院

 さらに上の段にも山肌をきりひらいた墓地があります。その上や左手に民家がありますが、抜けることはできません。この左手の民家のあたりが、西方寺跡かと思われます。上杉憲方供養塔もこのどこかにあるのでしょうが、見ることはできません。

墓地から眺める西方寺があったと思われる谷戸 2025/2/1
帰りは急階段を降ります

 西方寺跡は確認することはできませんでしたが、この墓地や、上杉憲方墓所跡を含む一帯だったことは確かです。極楽寺切通が作られ、拡張されたために、その跡は失われてしまったようです。

 その根拠となっているのが、「極楽寺伽藍古図」です。この図は江戸時代に描かれたもので、極楽寺の最盛期の有様を描いているとされており、かつての極楽寺が現在とはまったく違った大寺院だったことが解ります。現在の稲村ヶ崎小学校とその周辺の住宅地だけでなく、周辺の谷戸と尾根もふくめで寺域が広がっていたのです。
 その図の最も下の部分に、現在の山門から伸びる極楽寺切通の道が描かれていますが、その右の山中にある建物に「西方寺」と書かれているのです。次の図で、赤く囲んだところです。
 

 文字が小さく、読みづらいのですがはっきりと「西方寺」とあるので、極楽寺の最盛期に、ここにあったことは間違いありません。

現在の西方寺へ

 現在の西方寺はどうなっているのでしょうか。その移転先の横浜市港北区新羽に今も「西方寺」として立派に残っています。西方寺は、秋の彼岸花などで「花の寺」として横浜で人気のお寺です。ぜひ訪ねてみてください。

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