池子の森自然公園(弾薬庫跡)

2023/7/12

 逗子市の北東部に広がる広大な池子の森。戦前が日本軍、戦後はアメリカ軍の弾薬庫として使われ、現在も大部分はアメリカ海軍用の住宅地として使われています。2001年にその一部が整備され、池子自然公園として公開されています。豊かな自然が残されていますが、はたして弾薬庫跡はどうなっているのでしょうか。

 まずはGoogleマップで見てみましょう。

  • アクセス 京浜急行神武寺駅下車 徒歩10分 または逗子駅から京急バス(アザリエ循環行、逗30)で池子十字路下車 徒歩5分 逗子側出入り口へ 駐車場完備
  • 開園日 池子自然公園・緑地エリアは、水曜・土曜・日曜・休日のみ。8:45~17:00
    ただしスポーツエリアの運動施設はいつでも利用可(事前申し込み制)
  • 問い合わせ 緑地エリア 逗子市緑政課 046-873-1111
    スポーツエリア 池子の森自然公園管理事務所 046-871-7022
  • 逗子市ホームページ 池子の森自然公園緑地エリア

緑地エリアへ

 今のところ、緑地エリアは平日は水曜のみ、あとは土日と休日だけの開園日ので、水曜日に訪ねると良いでしょう。京急逗子駅の次、神武寺で下車。ホーム北の端に改札口がありますが、これは米軍住宅専用で日本人は利用できない。線路を回って駅正面出口へ。前の道を左にもどること8分ぐらいで池子十字路につく。逗子駅からバス(本数は少ない)を利用した場合はここで下車。

  • 池子の森入り口の踏切 十字路を北西方向に入っていくと京急の踏切があります。この踏切を渡っていくと、線路が四本あります。よく見ながら渡ると不思議なことに気がつきます。
京急のレール 神武寺方向
引き込み線のレール 神武寺方向

 京急のレールと並んでいる二本のレールは、JRの車両製作所用の引き込み線で、ご覧のように神武寺川はゲートが閉まっている。踏み切りを渡りながら観察すると、京急線とJR引き込み線のレール幅が違うのが分かります。これはJRがいわゆる狭軌(1067mm)なのに対して、京急は広軌(1435mm)を採用しているからで、ここでは珍しく広軌と狭軌が並んでおり、それが一つの踏切で観察できるポイントなのです。

2023/7/12 踏切を越えて右手に見えてくる風景

 踏み切りを渡ると、あたりは民家の無い、広々とした世界。右手に立派なゲートがあり、奥に日の丸と星条旗が並んではためいています。

  • 池子の森の入り口
2023/7/12

 ここはアメリカではありません。池子の森に入るにはこのような看板を目にすることになります。アメリカ海軍横須賀司令部の池子分遣隊、池子居住地域、というわけです。自然公園は逗子市に返還されたと言っても、実際には日米双方の共同利用とされており、アメリカの軍人家族もこの公園を使用しています。

2023/7/12

 看板には COMMANDER FLEET ACTIVITIES YOKOSUKA / IKEGO DETACHMENT / IKEGO HEIGHTS FAMILY HOUSING とあります。要するに「横須賀米海軍 池子住宅地」ですね。もちろんこちらには入ることはできません。
 逗子市のパンフレットには、米軍基地や住宅にはカメラを向けないこと、とありますが、何もとがめられることはありませんでした。
 池子の森はこの道をまっすぐ上っていきますが、右手に広がる広大な土地がアメリカ海軍住宅です。でも住宅は山のさらに向こう側にあり、ここからは見えません。長い紛争を経て建設された池子の米軍住宅は現在、854戸にのぼります。横須賀の米軍基地に勤務する将兵の住居で、中に小学校も建てられています。

  • スポーツエリア 左手はスポーツエリアとなっており、陸上競技場、野球場、テニスコートが並んでいます。こちらは逗子市に返還されて公園の一部となっており、逗子市民が使用することができます。
スポーツエリア 野球場

池子遺跡群資料館

 駐車場・駐輪場をすぎると左手に管理事務所棟が見えてきます。お手洗いがありますから、池子の森に入る前に済ませておきましょう。
 森に入る前に、ぜひ訪ねてほしいのが、管理棟の3階にある「池子遺跡群資料館」です。この池子の森一帯は、戦前は日本軍、戦後はアメリカ軍に接収され、民間人は立ち入ることができす、そのためかえって開発がされずにいました。ところがその地にアメリカ軍家族住宅が建設されることになり、1989(平成元)年から1994(平成6)年までの間に埋蔵文化財の発掘調査が行われました。その間の遺跡の記録と出土品の保管のために建設されたのが「池子遺跡群資料館」です。
 発掘調査の結果、池子には弥生時代から古墳時代・歴史時代に至るまでの人々がながく生活をしていた場所であることが判明し、貴重な多くの出土品が得られました。資料館の2階はその収蔵庫で、3階が展示室となっています。小さな資料館ですが、池子に生きた人々の豊かな生活の営みの歴史がコンパクトに展示されていますので、ぜひ訪ねてください。

  • 休館日 月曜(休日に当たる場合は開館し、翌日を休館)
  • 入館料 無料
  • 問い合わせ 046-871-7006
  • 管理 逗子市教育委員会
2023/9/27 

 2023年9月27日、年金者組合鎌倉支部健康ウォーク・サークルの月例会、約20人ほどで訪ねました。事前に資料館の担当の方に、展示室のご案内を依頼し、当日は熊坂さんに丁寧に説明を頂きました。

 展示物の内容、くわしくは資料館のパンフレットをご覧ください。ひとつだけ、私が最も興味深かった、子供用の甕棺だけごらんいただきます(写真はOKでした)。

散策路

 下見の時、パンフレットに「散策路」というルートがあり、そちらでシロウリ貝の化石を含む岩石を見ることができるというので、行ってみました。

  • シロウリ貝の化石を含む岩
シロウリ貝の化石を含む岩

 資料館(管理棟)の裏のテニスコートに沿って行くと、たしかに巨大が岩石が屋根の下に置かれていました。これはスポーツエリアの野球場を造営したときに発掘されたものです。シロウリ貝とは440万年前の古相模湾の水深1,000mの海底に生息した貝で、それが海底地滑りで砂泥とともに深海に堆積し、それが地殻の変動によって隆起し、約50万年前に化石化するとともに地上に現れたのです。生物学的にも、地質学的にも大変貴重な資料です。<資料館パンフレットより>

  • ハードな散策路 さてその先の「散策路」に向かいましたが、階段の次には長い登りが続き、ちょっときつい道でした。「散策」といった感じではありません。また周りは鬱蒼と杉などが茂っており、急な山道の雑草で覆われ、ヘビが出てきてもおかしくない雰囲気。展望もないので、足腰の弱い高齢者にはお勧めできません。ようやく下りになって道路に行き着くと、そこはもう池子の森のエリアで、ビジターセンターのちょっと手前でした。道路を振り返るとトンネルが見えます。無理せず、本番ではトンネルを通って森に入りましょう。

「散策路」にはキノコが生えた倒木がごろごろ。
ところどころにある道案内版は、英語です。米軍住宅の皆さんも散策に来るのでしょう。

 右手の看板があるところが「散策路」から降りてきた所。ふりかえるとトンネルの口がぽっかり空いてました。

 2023年9月27日、健康ウォークサークルの「池子の森探索」本番。この日は案内を逗子観光推進の会の山内さん(ともう一人の方)にお願いしました。広い池子の森を歩くには、やはりガイドは必要です。ガイドをお願いしたい場合には、逗子市観光課を通じ、観光推進の会に依頼するのが良いでしょう。

 トンネルをすぎると広々とした道が延び、周りは鬱蒼とした森が広がっています。かつてこのあたりは日本軍が、続いてアメリカ軍が、弾薬庫を置いていたところですが、現在はその面影は全くありません。
 しばらく行くとビジターセンターがありますが、無人で、これといった説明もありませんでした。
 その前に、黄色い消火栓がポツンと置かれていましたが、これは米軍の弾薬庫だったときのもののようです。 

弾薬庫のレール跡

 ビジターセンターの裏から谷戸を入ったあたりに、レールを見ることができますが、このあたりは一人で行っても見つけるのは難しいでしょう。ぜひ案内をお願いすべきです。

 足下を見ると、レールの間の敷石も残っていました。落ち葉の下に隠れたレールはさらに谷戸の奥まで延びています。かつてはこのようなレールが、谷戸ごとに設けられた弾薬庫につながっていました。ここから運び出された弾薬が、戦場で人を殺傷していたわけです。
 このレールはかつては国鉄逗子駅までつながっていました。そこから軍港横須賀に横須賀線で運ばれたのでしょう。また一部は京急線ともつながっていたそうですが、その部分は広軌にも適用できるよう、レールが3本ひかれていたそうです。

弾薬庫跡

 池子の森にはいくつもの谷戸が入り組んでいます。この谷戸一つ一つに弾薬庫が置かれていました。また軍に接収される前は、このあたりは柏原村という集落の一部で農家が点在しており、水田や畑をつくっていました。案内の方はこの谷戸は誰々さんの家があったところだと、話されていました。

広場

 中央の広い通路に戻り、進んで行くと広々とした平地に出ます。気持ちの良い広場で、ベンチやテーブルもありますから、昼の弁当には最適です。

 池子の森にはたくさんの樹があります。
 樹木、植物の名前に疎いので、正確ではありませんが、この樹は「ミズキ」ではないでしょうか。かなり大きな樹でした。
 これ以外にも、桜も何本もあり、花見の時期もいいかもしれません。

池とその周辺

池子の森には池や小川があり、いまではヘイケボタルやいろいろなトンボなどが生息。自然観察できるそうです。

東の谷戸 ヘイケボタルの生息地
池子の森を流れる小川

 池子の森の平地はかつて田んぼがあったところですが、弾薬庫にするときに埋め立てたので当時の田んぼがあるのは2~5m下だそうです。また池はこのとき埋め残した平地に水がたまったもので、ためいけだったのではありません。<観光推進の会の方のお話>

ここから先は入れません

 広場の脇の広い道をなおも進んでいくと、突然ゲートが現れ、DANGER ここから先は入れません、となっていました。

 ゲートは開いており、無人ですが監視カメラがありました。ここから先は、まさにアメリカ軍の管轄下にあり、日本人は自由に出入りできないゾーンです。住宅地ではなくアメリカ海軍池子住宅に居住する家族のためのキャンプなどのリゾート地となっているようです。ボーイスカウト主催のキャンプなどでも使うそうですが、まだまだ広大な非公開地域があるということですね。

 ゲートの内側に一歩入ってパチリ。右手にはトイレ、奥には大きな碇(海軍の象徴)が置かれているのが見えました。その奥の様子はわかりません。警報が鳴ったり、米兵が飛んでくるようなことはありませんでした。

森の中の遺跡 中世のやぐら

ここからは進めませんので、戻るしかありません。中央の広場の方に戻ります。途中にもいくつか谷戸があり弾薬庫跡だと思われませんが、ほとんど立ち入り禁止になっています。いまや池子の主人公はとんびやむくどり、山鳩など野鳥たちのようです。たくさんの鳥がいきいきと飛び交っていました。

  • 中世のやぐらの跡 広場に戻る途中、右手の山沿いに中世のやぐら跡が残っていました。このあたりは鎌倉の政治・文化圏でしたから、中世の遺跡はたくさん残されていると思われます。ここだけは近づくことができましたが、やはり中をうかがうことはできませんでした。

池子の森 ところどころ

 広場を出ると通路には大きく SLOW の文字。ここがアメリカ人と日本人の共用スペースであることをいまさらなら思い出させます。ときおりアメリカ軍とおぼしき車が奥の方まで走っていくのを見かけました。

  • 久木側出入り口へ 上の写真の車は、逗子市の公園管理用車両でした。案内図などがありましたが無人でした。時どきこの車両で巡回しているようです。この車両の置かれていたところが久木方面出入り口への分岐点です。
池子の森 久木側出入り口

 逗子市久木に出るのはここからですが、逗子駅に戻るには不便ですから、元来た道を逗子側出入り口に向かった方が良いでしょう。
 なお、「久木」という地名は新しいもので、このあたりは久野谷村と柏原村という二つの村だったのを合併して久と柏原の木偏だけをとって久木としたそうです。ずいぶん強引です。そして柏原村があったところが軍の施設として買収され、現在の池子の森になったのです。

日本海軍による接収

  • 1938年(昭和13年)日本海軍の倉庫(軍需部池子倉庫)開設。後に第二海軍航空廠(本処:木更津)補給部池子工場となり、弾薬庫として使用されるようになった。
  • 1942年(昭和17年)には、横浜市金沢区側(当時、磯子区)に海軍の毒ガス弾の製造工場(谷戸田注填場)が設置された。

 日本海軍に接収され、弾薬庫とされる前は、この地は柏原村という農村でした。その住民は強制的に移住させらています。1938年に軍需部池子倉庫が建設され、その後周辺が弾薬庫用地として接収され散ったようです。次の文は池子の森自然公園の案内パンフから拝借した、柏原村住民の回想です。

 コラム 柏原村追想
 東西の山懐に点在する農家と山峡に深く水田の続く山里。そこが柏原村だった。…………寄り添い励まし合い素朴に生き続けて来た村人の明け暮れに、青天の霹靂のような事件が起こった。昭和16年8月、火薬庫建設用地としての、日本海軍の買収だった。すでに物資労働力も不足している時にもかかわらず、国家への忠誠を誓う犠牲的な取引だった。僅か四ヶ月以内に立退くべしとの軍よりの達しに、故郷を離れる感傷に浸る余裕もなく、追われるように先祖代々の煤けた家財をひくリヤカーや馬力、牛舎に積んで、降っても吹いても、夜を日に継いで泥沼のようになった一筋道を吾先にと村を後に列をなしてゆく有様こそ、柏原村の消えゆく最後の姿だった。時に、昭和16年の暮れも迫ろうとしていた。<1987年発行の『柏原』より鈴木千枝さんの回想>

米軍による接収

  • 日本の敗戦後、1945年(昭和20年)9月1日に、連合国軍に接収され、アメリカ陸軍の弾薬庫として使用されるようになった。
  • 1947年(昭和22年)11月17日には、弾薬庫で大爆発が発生し、日本人6人が重軽傷、山林約100haが焼失、周辺住民約1,000人が避難した。
  • 1952年(昭和27年)4月28日、日米安全保障条約の発効に伴い、池子弾薬庫は連合国軍による接収施設から安保条約に基づくアメリカ陸軍の管理下に移行した。
  • 1970年(昭和45年)7月、池子弾薬庫が陸軍から海軍に移管された。

返還運動と米軍住宅建設問題

  • 池子弾薬庫は、ベトナム戦争の終結までは弾薬の貯蔵に使用されていたが、1978年(昭和53年)7月には事実上の閉鎖状態となった。
  • 神奈川県、逗子市、横浜市は関係省庁やアメリカ大使館に対し池子弾薬庫の返還を求めて働きかけ、1972年(昭和47年)に一部が返還(第一運動公園)された
  • 米国側は日本政府に対して弾薬庫跡地での家族住宅の建設を強く要望し、防衛施設庁は1983年(昭和58年)7月、池子弾薬庫跡地への住宅建設を正式に表明した。
  • 1984年(昭和59年)10月には住宅建設の条件付き受け入れを表明した三島虎好市長が辞職、受け入れ容認派が多数を占める市議会のリコール解散、1986年3月には受け入れに反対した富野暉一郎市長に対するリコール住民投票は不成立となったが、1987年(昭和62年)8月市議会と対立した富野市長が辞職した。日本政府は、逗子市の受け入れ表明を得ないまま、住宅建設のための準備を着々と進めた。
  • 1989年(平成元年)12月、逗子市は仮設調整池工事続行禁止請求訴訟で対抗したが、1993年(平成5年)5月にはついに本体工事の着工に至った。訴訟は、1審・2審とも逗子市が敗れ、同年9月最高裁判所で上告棄却となって終結した。

米軍住宅の建設

  • 和解に向けて動き、1994年(平成6年)11月、防衛施設庁長官、神奈川県知事、逗子市長の間に三者合意が成立し、逗子市は住宅建設を正式に受け入れた。
  • 1996年(平成8年)4月2日、住宅の一部落成記念式典が行われた。854戸全部が完成したのは1998年(平成10年)3月31日である。このために日本政府が費やした金額は664億円であった。

自然公園の整備

  • 2001年(平成13年)に日米共同使用の形で公園の整備が始まった。
  • 2022年(令和4年)12月、隣接する逗葉地域医療センター・市保健センターへの進入路約2,500㎡の返還に合意した。
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