鎌倉の北の護り
大船からバスで15分ほど入った今泉に、鎌倉でも創建年代が古く、また鎌倉でも最も古い仏像とも言われる毘沙門天像を蔵している、注目すべき古社、白山神社があります。珍しい大注連縄も見物です。鎌倉湖や今泉称名寺を訪ねた後の散策に、ぜひ立ち寄ってください。
- 祭神 菊理姫之命
- 創建 1191年(建久2年)
- 源頼朝が京都から毘沙門天像を勧請して創建した毘沙門堂が起こり。
- 明治の廃仏毀釈で白山神社となる。
- 今泉の氏神。
- 〒247-0052 鎌倉市今泉3丁目13-20
行き方 大船駅東口交通広場(駅降りて右に行く)江ノ電バス 鎌倉湖畔循環 約13分 白山神社前下車 徒歩3分 バスはほぼ15分間隔で出てています。運賃片道250円
白山神社とは
白山神社は、山岳信仰の一つである白山(石川、福井、岐阜にまたがる標高2702mの高山)信仰が仏教の修験道と結びついて、全国(東日本に多い)に広がり、各地に勧請されたものです。
鎌倉今泉の白山神社は、建久元(1190)年に源頼朝が上洛した際、鞍馬山に参詣し、行基作の毘沙門天二体のうち一体を請来し、翌年毘沙門堂を建立したことに始まると言います。
その後も長く毘沙門堂といわれていましたが、明治維新の神仏分離令で白山神社とされ、毘沙門堂は無くなりました。
酔亀亭天廣丸の碑
バス停白山神社前を降りて進行方向にしばらく進むと、左手に参道があります。参道入り口には右手に真新しい「禅宗今泉寺」という石碑、左手になにやら歌碑らしき石碑が立っています。
くむ酒は 是風流の 眼なり 月を見るにも 花を見るにも 廣丸
とあります。
これは江戸時代の狂歌師、酔亀亭天廣丸(1756~1828)の詠んだ狂歌です。廣丸は今泉の生まれで江戸で狂歌師として有名になりました。無類の酒好きでいつも徳利を手放さなかったそうで、衣服の紋も徳利にしたそうです。その辞世の歌は、
心あらば 手向けてくれよ 酒と水 銭のある人 銭の無い人
でした。いいですね~~。
墓は今泉の磯崎家墓地にあり、やはり墓石に徳利の図が刻まれているそうです(未見)。
庚申塔と毘沙門堂の碑
小さな鳥居をくぐり、参道を進んで行くと、右手に庚申塔が数基、まとめられています。
庚申塔のもっとも手前の大きなものは、寛文12(1672)年11月の銘のある舟形庚申塔で、上部に阿弥陀三尊の種子を陰刻し、下部に肉厚の三猿のある典型的なもので、鎌倉市の指定有形文化財とされています。
いちばん端に、小さな石碑があります。よく見ると「猿田彦大神」とあり、何やら不思議な模様が彫られています。猿田彦も江戸時代に民間で信仰されていた神です。
庚申塔の前、参道の左側に三つの石碑が並んでいますが、左の丸い石柱にはひらがなで「びしゃもんてん」と刻んであり、真ん中の小さい石碑には漢字で「毘沙門堂」とあります。これらは、白山神社がかつては毘沙門堂と言われていたことを示す遺品ですね。
今泉寺
白山神社の石段の途中にある寿福山今泉寺は、もともとは毘沙門堂の別当寺(管理する寺院)であったらしいのですが、神仏分離以前に廃寺になったようです。
現在は建長寺の塔頭の一つとして再興され、昭和58(1983)年に本尊如意輪観音の開眼供養を行い、本堂も落慶しました。
大注連縄をくぐる
石段を上がっていくと、特異な形をした大注連縄が眼に入ってきます。両側のモチノキに掛けられた注連縄は、毘沙門天の使である百足を模ったもの、長さ約7m、太さ20~30cm、12組の脚があります。
毎年1月8日に今泉近辺の氏子が集まって注連縄を綯い、掛け替えるならわしとなっており、大注連祭とわれています。昔からこの集落の大事な行事で、現在も続いています。この注連縄が1年間落ちなければ良い年になるとされています。
この写真は、2015年9月20日にお詣りしたときのもので9月ですからムカデもだいぶくたびれています。
2024年1月8日に訪ねましたので、後にその様子を掲載しました。
由緒ある社殿
現在の社殿は昭和36(1961)年に山崩れで破損したものを再建したものです。しかし、古い棟札が残っており、その中で最も古い棟札には享禄5(1532)年と言うのがあります。とすれば、室町時代の終わりごろにはすでにもとになる社殿があったということになります。
本尊毘沙門天
毘沙門天とは、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一つとされる多聞天と同じ仏様です。梵語でバイーシュラバナといい、「仏の教えを良く聞く」という意味なので、漢訳されて多聞天と言われました。しかし、その音から毘沙門天ともいわれるようになり、単独で信仰される場合は毘沙門天といわれます。
鎌倉最古の仏像か
- 毘沙門天信仰 聖徳太子は仏教に深く帰依し、物部氏と争ったときも小さな四天王像を髪の中に入れて戦ったと言われ、勝利の後、難波に四天王寺を建立しました。そのころ、毘沙門天は帝釈天に属して須弥山の北方を守護し、夜叉・羅刹などの鬼神を従えて最強の武神とされるようになりました。その姿は通常、右手に槍を持ち、左手に宝塔を掲げ、鎧に身を固め、邪鬼を踏みつけています。
- 鎌倉最古の仏像 白山神社には毘沙門堂の本尊であった源頼朝が鞍馬寺から請来したという兜抜毘沙門天像が安置されています。像高164.5cmの一木造で11世紀頃の作であるとされているので、鎌倉では最も古い仏像の一つで貴重なものです。この社殿には、毘沙門天だけでなく、前立ちの毘沙門天と両脇侍、吉祥天女像など、鎌倉幕府創設以前の地方仏が保管されていますが、残念ながらいずれも非公開です。例祭ではご開帳されるそうです。こんかいはこの写真を参照して下さい。
- 白山神社の位置 さて、頼朝のが請来したという毘沙門天の安置するお堂が毘沙門堂ですが、なぜ鎌倉幕府中心部から離れたこの地だったのでしょうか。それは子の社が元は実社問答であったことを考えれば解けるでしょう。地図上で、白山神社と最初の鎌倉幕府が置かれたという現在の幕府跡の地点を線で結んでみてください。
境内のところどころ
子守神社
社殿の右手に小さな子守神社があります。もとは砂押川下流の村々の水の配分のつかさどる神様である「水分(みくまり)神社」であったものが、訛って「みこもり」といわれるようになり、現在は子守神社とされています。昔は村人にとって水はそれだけ大事なものだったのです。
- 散在ヶ池 その砂押川の上流に創られた貯水池が散在ヶ池です。江戸時代には、砂押川の下流域の岩瀬と大船は「大船千石」といわれ、大水田が広がっていましたが、それに必要な水源は砂押川しかなく、雨の少ない年には「水争い」が起こっていました。その解決のために、明治2年に砂押川の上流の谷間を堰き止めて造られたのが散在ヶ池です。昭和32年に改修・拡張が施され、昭和57年には公園として整備されて鎌倉湖と名付けられました。桜や紅葉の時期にぜひお尋ねください。
醍醐塔
白山神社右手は、裏山の前が平場になっており、その奥に高さ2mほどの石塔が建っており、「醍醐塔」と彫られています。右側には近郷の村の村人の名が並んでおり、この神社(というより毘沙門堂)への信仰があったことが偲ばれます。
境内の巨木と花
大注連祭 2024年1月8日
毎年正月に行われる白山神社の注連縄張り替えの行事「大注連祭」を見に行きました。大注連縄を張り替えて、一年の吉凶を占うという民俗行事です。今泉の白山神社氏子の皆さんが集まり、特に気負ったところもなく、楽しそうにこなしてながら伝統行事を守っている姿に感心しました。
10時頃、神社に到着。階段を上ると、神社正面の二本のモチノキの間に、青竹が渡されています。皆さん、準備に余念がありません。今泉町内の氏子の皆さんのようです。子どもたちも楽しそうに走り回っていました。見物人はまだほとんどいません。周りの森から朝日が差し込み、気持ちがいいですね。
ムカデの本体はすでにできあがり、神社の縁側に横たわっていました。
神社の左隣の平場で、男たちがさかんに縄をなっています。どうやらムカデの脚をつくっているようです。
できあがったムカデの脚が並べられています。
10時半頃、青竹にムカデの本体の取り付けが始まりました。
胴体の取り付けができました。これはまだ脚がないのでムカデとは言えませんね。
いよいよ脚の取り付けが始まりました。
脚の並びを丁寧に微調整しています。
大注連縄ができあがりました。
神主が祝詞をあげ、式が始まります。結構長い祝詞を、氏子の皆さんと一緒に聞きました。このあと神主さんと幹事さんたちは本殿に登り、神事を執り行います。
去年の大注連縄を始め、町内から出された古いお札などに火がつけられ、青竹と一緒に勢いよく燃やされていきます。
この間、本殿では神主によるご祈祷が続いています。奥に見える毘沙門天は本尊ではなく、お前立ちです。
祭は何事もなかったかのように静かに終わり、氏子の皆さんは社殿横の建物で新年会のようです。見物の皆さんもどことなく手持ち無沙汰の様子ながら、帰って行きました。大注連縄をじっくり観察して帰りました。
12時半頃終わりました。この注連縄が途中で落ちなければ、今年は良い年になるということです。元旦の張り替えでなくて良かったですね。
帰りは、バスで大船に戻るなら白山神社バス停ですが、大船行きバス停はちょっと離れており、右の方にしばらく歩いて行き、左に入ったところにあります。このバスが鎌倉湖畔循環なので、鎌倉湖畔を回って降りてくることになるからです。
帰りは時間があったら、左手奥の今泉の称名寺や散在ヶ池(鎌倉湖)を訪ねるのもいいですね。