藤沢は「東海道五十三次」の中で、江ノ島参詣への分岐点でもあったので、特に賑わった宿場町として発展しました。それもう一つ、藤沢は宗祖一遍上人と縁の深い時宗総本山総本山遊行寺(正式には清浄光寺)の門前町としも栄えていました。今回は遊行寺をじっくりと歩き、その後に藤沢宿の昔、旅人が行き交ったあたりの古寺を訪ねます。
- コースの概略 出発JR藤沢駅 → 到着小田急藤沢本町
遊行通りー①
藤沢駅前から遊行寺方面に伸びる道を「遊行通り」といいます。藤沢宿の入り口であり、旧東海道である国道1号線の藤沢橋から江ノ島道を通り、江ノ島に向かう道でもありました。入り口の説明板には
「この通りは、正中2年(1325年)遊行寺が開山されるや、参拝の庶民が、その足で江の島、鎌倉へ詣でる唯一の街道として大へんな賑わいを見せていた。」とあります。
ところどころに遊行寺の念仏僧が、念仏を唱えながら歩く姿が描かれています。ここを歩くと同じような姿勢になるのでしょうか。
庚申堂ー(1)
遊行通りの中ほど、右手にある庚申堂は珍しい木造の青面金剛を本尊としており、江戸初期のものと言われています。町の中にある小さなお堂ですが、江戸時代の木造青面金剛立像は庚申塔として貴重で、藤沢市の有形民俗文化財に指定されています。ただし普段は非公開で、60年に一度のご開帳のときだけ厨子の扉が開かれます。
現在はにぎやかな遊行通りに面していますが、明治26(1893)年に小泉八雲(ラフカディオ=ハーン)が江ノ島からの帰りにこの前を通ったときには、お堂は荒廃し悲惨な状態だったと記されています。
<説明板より>市指定 重要文化財(有形民俗文化財)木造 青面金剛及び両脇侍立像
この庚申堂の本尊は青面金剛立像(寄木造・玉眼・彩色・像高89センチ)、一面三眼で牙をむき出し、頭にドクロを頂き、蛇をまとっている。手は六本、鬼を踏みつけ、悪鬼を払う憤怒の形相で二童子を従えている。
庚申講は庚申の夜の子・丑の刻限に青面金剛を拝して徹夜で過ごすと病魔を除去できるという信仰で、江戸時代から広く行われていた。
この本尊は青面金剛像の古形をよく伝え、木造としてもすぐれているばかりか、保存状態も極めて良好である。それは60年ごとの開帳を厳守したからであろう。制作年代は造像銘を欠き明確になしえないが、江戸時代前期と推定されている。昭和59年3月26日指定 藤沢市教育委員会
寛文十三年の庚申供養塔 庚申堂の左手にはたくさんの石塔が並んでいる。その多くは庚申塔で、とくに右奥の二体が大きく立派です。この二体の左手のものに寛文十三年(1673年)銘があり、市指定の重要文化財とされています。
<説明板より>
この庚申塔は、前面いっぱいに六臂二眼の青面金剛像を陽刻している。着衣の裾には雄雌の鶏を彫り、足下には邪鬼面をふまえ、威圧感を強調した表現である。
基礎には、前面及び左右側面に十五人の造立者名が刻まれている。その中には浄阿弥陀仏・厳阿弥陀仏など時宗の阿弥号のほか、寿白禅定門などの法名、高橋長左エ門など俗名も含まれ、この講中は自家の宗派によらない町内庚申結社であったと思われる。
昭和52年4月13日指定 藤沢市教育委員会
この他、さまざまなスタイルの庚申塔が並んでいる。もともとは、街のあちこちにあったものが、道路の拡張などで取り払われ、ここに集められたものだと思われます。 → タグ 庚申塔
遊行の盆
遊行寺は時宗の本山です。宗祖一遍は「踊り念仏」といわれる踊りながら念仏を唱え、人々の極楽往生を導きました。その伝統を引き継いで、今も夏のお盆の時期に「藤沢宿・遊行の盆」が開催されこの遊行通りも次々と踊り手が繰り出し、賑やかになります。
コロナのためにしばらく中止が続きましたが、2023年には7月22日・23日に藤沢駅北口広場で開催されました。 → 【公式】藤沢宿 遊行の盆ホームページ
西馬音内盆踊り
2015年7月25日に行われた「遊行踊り」では地元の踊りのグループが多数出演しました。そのなかで、藤沢ではなく、遠く秋田県からやってきた西馬音内盆踊りが、目を引きました。そのときのスナップを紹介します。/
西馬音内盆踊りとは、秋田県雄勝郡羽後町西馬音内に伝わる盆踊りである。重要無形民俗文化財として国の指定を受けており、さらに2022年には日本各地の民俗芸能「風流踊り」のひとつとしてユネスコ無形文化遺産にも登録された。毎年8月16日から18日まで西馬音内本町通りにおいて行われており、八尾の風の盆、郡上八幡盆踊りとならんで日本三大盆踊りともいわれている。
2015年の藤沢の遊行踊りでは、客演としてはるばる西馬音内から踊り手とお囃子連中が参加した。
踊りの発祥の経緯はよく分かっていないが、戦国時代以前に遡るらしい。もともとは戦乱の死者を弔う亡者踊りだったらしく、黒い覆面をつけて踊るのはその名残と考えられている。古風な盆踊りを伝えているほか、端切れを縫い合わせた衣装を手作りしてまとうことなども特徴である。<wikipediaなどによる> → 羽後町観光物産協会ホームページへ
江ノ島道ー②
江ノ島道道標ー(2)
遊行通りを抜けると、江ノ島への参道「えのしま道」の道標にでます。この道標は、江戸時代の盲人の最高位にいた杉山検校(1610~94)が藤沢宿と江ノ島弁財天をむすぶ江ノ島道に、48本建てたものの一つです。杉山検校については、江ノ島のページで触れます。
杉山検校は江ノ島弁財天に参拝した際、按摩術の極意にを感得したことから江ノ島を篤く信仰し、盲人のための道標として文字を深く彫って作り、奉納したものです。現在は11本が残っています。
上の写真の道標には正面に「ゑのしま道」、右面に「一切衆生(すべての生きとし生けるものが)」と読めます。右の写真がその左面で、「二世安楽(現世と来世の二世に安楽に暮らせますように)」と深々と彫られています。
江ノ島道が東海道にであるところに一基、藤沢宿西端の白旗神社鳥居右脇にも一基、同型の道標があります。また別項で片瀬江ノ島道、州崎通り、江ノ島島内にも見ることができますので、歩く途中に見落とさないようにしましょう。
蔵前ー(3)
旧道江ノ島道をしばらく行くと、中程左手に、立派な蔵と並んで古い商家が残っています。ここは現在、現在は「蔵まえギャラリー」という、いろいろなイベントに場所を提供しているところで、かつては米屋さんだったと思われる旧家です。
砂山観音堂ー(4)
江ノ島道から広いとおりに出てしばらく進むと大きな交差点に出ます。ここを右に曲がれば境川に係る藤沢橋を渡り、戸塚方面に行く国道1号線です。まっすぐ行いよいよ藤沢宿に入っていきますが、交差点を渡る前に左手に小さなお堂があるのて立ち寄りましょう。
このお堂は砂山観音堂ですが、境内に古い庚申塔や、関東大震災の慰霊碑などがあり、隣には鮮やかな朱塗りの鳥居と社殿をもつ鼻黒稲荷大明神が鎮座しています。
砂山観音堂の前の交差点が「藤沢橋交差点」で現在の国道1号線とまじわる道路です。右に曲がり藤沢橋を渡って1号線を北に向かい、しばらく行って右に入る道が、藤沢と鎌倉を結ぶ古道の「鎌倉道」です。時間に余裕があったら、足を伸ばし、古くからの神社「船玉神社」を訪ねましょう。
船玉神社ー(5)
遊行寺前から境川に沿って南にのびる「鎌倉道(街道)」は、今はその面影はありませんが、東海道から鎌倉方面に向かう重要な道でした。しばらく行くと右手に船玉神社があります。
昔は境川を江ノ島の河口から船が遡り、上流の相模国各地から集められた木材をこの辺りで加工し、さらに河口に運ばれ、海路で鎌倉の浜に運んだそうです。源実朝が宋に渡ろうとして大船を造ったときや、北条早雲が玉縄城を築いたときも、ここから木材を運んだと言います。
今も船玉神社のすぐ裏手を流れる境川は、水量は少なくなり、船は通れなくなっていまいましたが、古代から中世では相模国の水運の重要ルートであり、その結節点が船玉神社のあたりだったと思われます。
そのため、このあたりには昔から木材を大きな鋸で加工する職人が多く住んでいました。そこからこのあたりの大鋸という地名が起こりました。
船玉神社から鎌倉道をもどり、国道1号線にでて道路を渡り、右をしばらく行くと、遊行寺総門方向に入る道に出ます。これが遊行寺坂を降ってきた旧東海道が鍵型に曲がり、藤沢宿に入っていく道でした。
旧東海道ー③
広小路ー(6)
藤沢橋交差点で右に曲がり北上し、遊行寺を左に見て登っていく坂が遊行寺坂で、これが旧東海道であり、坂の上り口当たりの左手に藤沢宿の東の端であることを示す「江戸見附」が置かれていました。
江戸に向かう旅人はゆるやかな坂を上り、戸塚宿に向かいます。江戸の方角から坂を下りてきた旅人はここから藤沢宿に入り、東海道を西に次の平塚の宿をめざすか、江ノ島神社の鳥居をくぐって江ノ島道を進み、江ノ島見物を兼ねてお詣りをするか、という分岐点でした。
遊行寺坂は毎年正月の箱根駅伝のコースなのでテレビ中継でおなじみですね。
戸塚宿から旧東海道をすすみ、遊行寺坂をくだったところで右に曲がり、遊行寺の門前近くでさらに左に曲がって、大鋸橋(現在の赤い遊行寺橋)を渡りって藤沢宿に入る鍵型に曲がっているのが旧東海道です。
このあたりの道は、一段と広くなっています。これは火除けの意味で道幅を広く取っていたので、広小路と言われており、主要な街中の道路でよく見られます。江戸市内の上野の広小路が有名ですね。
角には現在、藤沢市ふじさわ宿交流館があり、休憩所に資料館が併殺されていて、藤沢宿の昔の様子を伝える展示がありますので、ぜひ立ち寄ってみてください。 → ふじさわ宿交流館
広小路が鍵の手に曲がっているのは、江戸時代の街道にしばしば見られることで、仮に江戸を攻めようとしたとき、直線的に攻めることを防ぐという軍事的な意図によるものです。
遊行寺は時宗の総本山でぜひ立ち寄りたいところですが、遊行寺探訪は別の機会にして、今日は入山せず、広小路を通って藤沢宿の散策に向かいましょう。 → 遊行寺
- 『相中留恩記略』にみる大鋸橋と大鳥居
『相中留恩記略』は藤沢渡内の名主福原高峯が画家長谷川雪堤の協力で天保10(1839)年に出版した相模国の案内記です。
この図はその巻13の藤沢宿の最初の部分を拡大したもので、東海道に架かる大鋸橋、そこから分かれる江ノ島道の大鳥居が描かれています。
図の右上が遊行寺、左が藤沢宿となります。
大鋸橋と江ノ島道標―(7)
境川にかかる橋は、現在は「遊行寺橋」ですが、昔は大鋸橋といわれていました。大鋸というのはこのあたりの地名で、近くは戦国時代に後北条氏に仕え、玉縄城造営に従っていた大工たちがこの辺りに住み、大きな鋸を使っていたことから出た地名です(前出)。
欄干の赤い旧大鋸橋(現在の遊行橋)を渡った左手に、境川を背にして杉山検校が建てた江ノ島道標が建っています。これが江ノ島道を行く人の道しるべの起点です。江ノ島道のところで触れました。
このあたりが旧東海道の藤沢宿で、最も人通りが多かったところなので、ここに高札場が置かれていました。
江ノ島神社の大鳥居跡ー(8)
かつて藤沢宿の高札場であったところは、東海道から江ノ島に向かう分岐点でもありました。ここには江戸時代には下の図のような大鳥居が立っていました。この鳥居は実は江ノ島神社の一の鳥居です
これは安藤広重が描いた東海道五十三次「藤沢宿」の図で、川は境川、橋は当時は大鋸橋と言われた現在の遊行寺橋。橋の向こうが広小路のあたりです。正面の小高い木立の中に見えるのが遊行寺で、江戸時代のこのあたりを良く表しています。
この大鳥居は、江戸から東海道を歩いて来た人たちが、江ノ島神社にお詣りするときにくぐる鳥居で、ここからが江ノ島神社の境内が始まるとされていました。ここに、いよいよこれから江ノ島に向かおうとしている一行が描かれていますね。
Question 江ノ島神社の大鳥居をくぐろうとしている人たちはどんな人たちでしょうか? 広重の絵を拡大して見てください。答えは後ほど。
広重の浮世絵に描かれた江ノ島神社大鳥居は現在はありません。明治の初めに東海道の道路を拡張するために撤去され、今はその礎石だけが遊行寺宝物館の前に置かれています。上の写真がその疎石です。全く様子を変えてしまった藤沢宿ですが、今に残る痕跡を探しに歩いてみましょう。
藤沢宿ー④
東海道の重要な宿場町だった藤沢宿は、遊行寺裏門の先にあった東(江戸側)の見附(入り口)から、小田急藤沢本町の先あたりの西(上方)の見附までをいいます。
次の図は江戸時代の『東海道分間延絵図』の中の、藤沢宿を描いた部分で、当時の東海道藤沢宿の様子がよく描かれています。
藤沢宿を西に向かって歩きましょう。今は全く宿場の様子は失われ、国道1号線を走る車の騒音があたりを支配していますが、それでもところどころに古い宿場町であったことを思い出させるような雰囲気が残されています。
・旧桔梗屋 右手に黒塗りの蔵屋敷風の建物があります。この旧桔梗屋は宿場町時代から茶・紙問屋を営んだ旧家であり、市内に現存する唯一の蔵造り建築として貴重です。現在は店蔵と江戸時代末期の文庫蔵を含む3棟が国登録有形文化財の登録を受けています。令和2年(2020年)10月に藤沢市が取得し、旧東海道に面した宿場町の雰囲気を伝える建物として保全し、活用をはかっているとのことです。
・内田商店 しばらく行くと、内田商店という、大正風の建物があります。ここを右手に入っていくと、突き当たりに「藤沢御殿跡」の説明板があります。
藤沢御殿跡ー(9)
藤沢宿の表通りから離れた裏手の一帯には「藤沢御殿」と言われ、将軍専用の宿泊所がありました。東海道が整備される前の江戸初期に、徳川家康や秀忠、家光が京・大坂と江戸を往復する際に宿泊したところで、深さ4.5mの堀と5.5mの土手で囲まれていました。
現在はまったく何も残っおらす、宅地化しています。『東海道分間延絵図』などの古地図に描かれているので、その存在が分かります。
- 陣屋小路の道祖神 藤沢御殿から戻る前に、足を伸ばして御殿前の道を右にとり、遊行寺方面にしばらく戻ると境川を渡る橋に出ます。橋を渡ったところに「道祖神・陣屋小路」とある大きな新しい石碑があり、その前にたくさんの道祖神や庚申塔などの石塔が並んでいます。その一つには、たしかに陣屋小路とあり、このあたりがそう呼ばれていたことが分かります。これらの石塔は最初からここに並んでいたのではなく、このあたりに散在していたものが、道路整備によって取り除かれ、ここに集められたものと思われます。真新しい庚申塔には昭和55年造立といのもあり、そのころまで庚申講があったことを伝えています。 → タグ 庚申塔
- 『相中留恩記略』に見る藤沢御殿
藤沢渡内の名主福原高峯が天保10(1839)年に出版した『相中留恩記略』巻13には、藤沢宿の大通りの北側に「御殿跡」が記されています。また、陣屋小路や本陣の文字も見えます。1600年頃、東海道が整備される前に徳川家康がしばしば逗留したという藤沢御殿も、200年経った江戸末期には「跡」だけが残り、さらに現在では全く宅地になってしまったわけです。
蒔田本陣跡付近ー(10)
- 蒔田本陣跡 旧東海道に戻り、西方にしばらく行くと右手のラーメン屋さんの前に、蒔田本陣跡の小さな碑がたっています。ここは藤沢宿に二つあった本陣(参勤交代の大名などが宿泊する公式の宿泊所)のうち、蒔田家の屋敷があったところです。蒔田家は明治になって藤沢を離れたので、現在その建物は残っていません。その存在は、この先右手奥にある妙善寺にある蒔田家の墓所のみが伝えられています。
こんどは道路を渡り、東海道の南側(京に向かって左手)を歩いてみましょう。旧桔梗屋の向かい側にはもう一つの本陣だった「堀内本陣」と問屋場がありました。さらに西に進むと稲元屋本店跡と明治天皇行在所跡があります。この他、福田屋人形店、豊島屋和菓子店(鎌倉の豊島屋の本店だそうです)、小松屋など、老舗とおぼしき店が続いています。
- 稲元屋 旧稲元屋は、幕末から呉服やタンスなどを扱い、藤沢の豪商と言われました。明治24年(1891)10月の関東地方陸軍大演習の際、明治天皇の行在所となり、その後も昭和初期までたびたび皇族らの宿泊所とされて藤沢でも有数の名家といわれたそうです。かつては一番蔵から八番蔵までありましたが昭和52年(1977)の火災や老朽化で、今は内蔵・一番蔵の2棟のみが残っています。
- 問屋場跡 本陣跡をすぎ、道路を反対側に渡ってしばらく行くと問屋場跡があります。問屋場とは公用書状の宿送り、人馬の手配、助郷村への賃金支払いなどを請け負う役目で、有力町民が任じられ、藤沢には大久保町と坂戸町にあり十日交替で務めていました。坂戸町の問屋は今標識のある場所の西隣の杉山弥兵衛が務めていました。
- 関次商店 堅固な蔵があります。これは関次商店の蔵で最近まで穀物倉として使用されていましたが、最近はそのまま土蔵を利用して、パン屋とカフェ「風土」が営業しています。
関次商店の奥に見えるのが、常光寺です。このあたりは、藤沢宿の問屋場の一つがあったところで、かつての宿場町の雰囲気が残っていますね。
関次商店の蔵は、現在、パンとカフェ「パンの蔵 風土」に変身しています。藤沢宿散策、常光寺参拝の帰りにでもいっぷくしていくのに最適です。
パンの蔵 風土
常光寺ー⑤
門の左手に、小さな石碑があります。気付かずに通り過ぎてしまいそうですが、次のような説明文があります。
藤澤警察発祥の地
明治五年八月、常光寺に邏卒屯所が設置され以後境内地の提供により警察出張所警察署に昇格。大正十四年洋風庁舎を建築し昭和三十九年四月、本鵠沼の新庁舎に移転するまで九十年間署が置かれていた発祥の地である
藤澤警察署創設百年を記念して碑を建立す
本堂と仏像
- 阿弥陀三尊像 本尊は木造阿弥陀如来立像で藤沢市指定文化財となっています。両脇侍観音菩薩・勢至菩薩と伴い阿弥陀三尊を形成しています。本尊の阿弥陀如来立像は造立年代はありませんが、南北朝時代の14世紀と推定されています。作風は鎌倉地方の様式を示しており着衣は細かく巧みに表現されています。両脇侍は江戸前期の作とみられます。なお、常光寺の創建は1572(元亀3)年ですので、本尊はここにあったのではなく、鎌倉扇ヶ谷阿弥陀堂(廃寺となった)にあったものが撮されたものと伝えられています。
- 地蔵菩薩立像 本尊とは別な仏像である地蔵菩薩立像も南北朝時代の作で高さ91.5、素材はヒノキ、阿弥陀如来像と共に南北朝時代の14世紀のさくであると措定されています。また当時の鎌倉の仏像で流行していた、仏の衣のひだ(衣文)が幾重にも重なるスタイルが見られ、鎌倉仏師の作風が顕著であるという、美術的・歴史的価値が高い、と評価されています。この像の両手の手首が破損していたのを2016年2月に修理が終わり、同年7月1日に鎌倉市重要文化財に指定されています。本堂と仏像
庚申塔二基
本堂への参道の左手に、立派な庚申塔が二基、建っています。二基とも笠塔婆型の庚申供養塔で、右が万治2(1659)年、左が寛文9(1669)年の銘があり、江戸初期の17世紀のものとして貴重であり、藤沢市指定民俗文化財に指定されています。 → タグ 庚申塔
左 寛文九年塔 総高 178cm
塔身両側面に「寛文九己酉年」「五月三日」、正面東部の左右に日と月、阿弥陀三尊を意味する梵字が彫られています。下部には正面と両側面に見ざる・聞かざる・言わざるの三猿が一体ずつ浮き彫りになっている珍しい形が見られます。
右 万治二年塔 総高 169cm
塔身正面に「萬治二年」「己亥正月吉日」、下部に十三人の造立者名が見られます。上部の梵字三字は阿弥陀三尊を表現し、その下の五字は大日如来に祈るときの呪文です。下方には猿と鶏が陽刻され、両側面と背面には「南無阿弥陀仏」とあります。
名木 カヤの大木
常光寺境内は宿場町の中心部にある樹林として貴重であり、全域約7900㎡が藤沢市指定天然記念物とされています。市街地でこれだけ多くの巨木が集まっているのは珍しいことでしょう。
特に本堂左手の墓地の中にあるカヤ(榧)は高さ58m、1984年に「かながわの名木100選」に選定され、樹齢300~400年と考えられています。
この他、境内にはクスノキ、タブノキ、イチョウの大木があります。
野口米次郎の辞世碑
定光寺の本堂の左手、大銀杏の隣に「野口米次郎辞世碑」というモダンな石造物があります。野口米次郎は明治・大正・昭和にかけて世界的に活躍した文化人で、日本文化の英米への紹介に功績のあった人です。碑文は次のように読めます。
「鐘が鳴る かねがなる これをすなわち 警鐘というのです これが鳴ると皆 ねます さあみんな 眠りましょう」
野口米次郎は明治8年、愛知県に生まれ、23年に単身渡米して新聞記者となり、のちイギリスに渡った。詩集を出版するなど詩人としても活躍、37年に日露戦争の報道のために帰国した。米次郎の兄が常光寺の住職であったので、この地に住居をもち、後に鎌倉円覚寺にも住んだ。その後慶応大学でも教鞭を執り、日本文化を世界に紹介した。特に浮世絵や正倉院宝物などを英文で紹介したことで知られる。また日本最初の英文案内書「KAMAKURA」を出版したこともでも鎌倉に縁があります。1947年、疎開先の茨城県で没しました。
野口米次郎は英米では“ヨネ・ノグチ”として知られていましたが、その子のイサム・ノグチはアメリカで彫刻家として活躍し、さまざまな斬新な彫刻、家具などを発表し世界的に有名でした。日本では女優山口淑子(李香蘭)と結婚したことで有名で、鎌倉の山崎の陶芸家北大路魯山人の工房の一角に住んでいました。
- 歴代住職の墓
常光寺の裏の小高い丘の一帯は墓地になっています。墓地に連なる一角が、何かのお堂の跡だと思われる平地があり、その奥に弁慶塚とつたえる石碑があります。
弁慶塚―(11)
常光寺の裏山は墓地となっており、路地から入っていくとひっそりとした空き地の屋に弁慶塚があります。弁慶は源義経に随って衣川で戦死しましたが、伝承ではその首は義経の首と一緒にこの地に流れ着き、首だけがここに葬られたと言われています。となりの常光寺には以前は弁慶を祀る八王子社があったそうですが、現在はありません。
弁慶塚の石仏・庚申塔
荘厳寺ー⑥
弁慶塚から表通り旧東海道(国道1号線)に戻り、しばらく西に進むと、高々とした荘厳寺の看板がありますので、左に入り荘厳寺を訪ねましょう。
荘厳寺は高野山真言宗。本尊は不動明王。創建は元暦元(1184)年とされていますから、それが正しければ、荘厳寺は藤沢で最も古いお寺となります。
現在は小さなお寺で市街地の中の墓地も狭いですが、もとはここではなく、さらに西にある白旗神社の隣にあり、神仏混淆の大きなお寺だったようです。明治政府の神仏分離政策により、明治8年にこの地に移りました。
境内に弘法大師の石像が二つ並んでおり、元荘厳寺の大師像と当荘厳寺の大師像とされているのはそのためです。弘法大師信仰の表れである相模国四国八十八箇所めぐりの第四番と第十番の札所となっています。
永勝寺ー⑦
荘厳寺から表通りに戻り、左に進んで最初の角を左に入り、道なりに進んでいくと左手に永勝寺の門が見えてきます。
永勝寺は、浄土真宗の寺で、江戸時代の慶長年間(1596~1615)に創建され、しばらく衰微した後に元禄4(1691)年に中興されました。浄土真宗は厳しい戒律や修行を課すのではなく、念仏を唱えればだれでもが極楽に往生できるという比較的に寛容な宗派で、女性の信者も多かったからでしょうか、この寺には他にない特徴があります。
それは、藤沢宿の「飯盛女」といわれた、実態は売春婦であった女性たちの墓があることです。
飯盛女の墓
- 飯盛女の墓 門を入ったすぐ左に並ぶ墓は、藤沢宿の旅籠の主人小松屋源蔵が、宝暦11(1761)年~享保元(1801)年までに建てた39基の墓石で、48人の法名が彫ってあります。このうち5人は男性ですが、他は飯盛女の墓です。彼女たちは源蔵の出身地、伊豆国小松村から来た飯盛女でした。
- 飯盛女とは 飯盛女(食売女)は本来は旅籠で旅人の食事の世話をする女性ですが、実際には遊女として接客させられていました。江戸幕府は公娼制度をとっていたため、遊女と区別して飯盛女と言いました。宿場や旅籠は客引きのため飯盛女に競って接客させたので、数が増え、幕府も黙認するわけにいかず、いろいろな規制を設けました。文政8(1825)年の川崎・神奈川・保土ケ谷・戸塚・藤沢の五宿では、飯盛女は旅籠ごとに2人以上置かないことや、飯盛女の衣類は木綿以外着用させないことなどが定められています。飯盛女の年季は多くが6年以上であり、中には20年以上という者もいました。その身代金は化政・天保ごろには年齢15~16歳で1年1両というのが相場だったそうです。天保6(1835)年には藤沢宿内の飯盛女の数は坂戸町17人、大久保町36人でした。
- 小松屋源蔵 飯盛女はほとんどが年季が明ける前、若くして亡くなったようです。彼女たちの墓が残されているのは大変珍しいことですが、浄土真宗の寺であったからこそ、でしょう。源蔵の哀れみの心があったからとも言えますが、墓の一角には源蔵自身の大ぶりの墓石も見られます。
永勝寺の花と石仏
現在の藤沢にも「小松屋」というお店があります。その位置からして、宿場時代の旅籠小松屋のこうしんかもしれません。ただし、現在はラーメン店に変身しています。旧東海道、蒔田本陣あたりまでもどり、右側にあります。藤沢宿散策でお腹が減ったら、永勝寺の飯盛女をしのびつつ、ラーメンを頂くのも良いですね。
ラーメン 小松屋
妙善寺ー⑧
国道1号線に戻り、道路を渡ってしばらく遊行寺方面にもどり、路地を左手に入ったところに妙善寺があります。このお寺は日蓮宗で山号を長藤山といいます。戦国時代の永正元(1504)年に創建されたと伝えられており、裏手の墓地に藤沢宿本陣蒔田家の墓地があります。
- 正宗稲荷 鎌倉の刀鍛冶正宗が尊崇する鍛冶の守護神の社が兵火で失われた後、弟子の綱廣が枕元に顕れた神に導かれこの地に新しく鍛冶の守護神を祭ったとの伝説がある。
義経と白旗神社
藤沢宿の西の端から北上するのが八王子道、北西に向かうのが厚木街道です。八王子道をしばらく歩き、東名高速道路の高架が見えてくると手前に大きな鳥居があります。それが白旗神社です。この祭神は源義経とされていますが、なぜ義経を祀る社がここにあるのでしょうか。
それを知るために、白旗神社を訪ねる前に旧東海道から路地を入ったところにある源義経首洗いの井戸を訪ねましょう。
義経首洗いの井戸―(12)
源義経は兄頼朝と対立し、奥州藤原氏を頼って逃れましたが、藤原泰衡によって衣川の館を攻められて源義経は文治5(1189)年閏4月に衣川で自害し、その首は奥州から鎌倉に運ばれ、6月に腰越の刑場で首実検が行われたと伝えられています。
一説によればこのとき、義経の首は腰越の海に流されましたが、何故か亀の背に乗って境川を遡り、この近くの村人が拾い上げ、きれいに洗って葬ったととされいます。そのときの義経「首洗いの井戸」が藤沢宿の一角にひっそりと残されていました。義経の首は現在の白旗神社の所に葬られ、一緒に流れてきた弁慶の首は常光寺の裏山に葬られたといいます。
コラム 『吾妻鏡』に見る義経の首
「文治五年六月十三日 辛丑 泰衡の使者、新田冠者高平、豫州(義経)の首を腰越の浦に持参し、事の由を言上す。仍って実検を加えんが為、和田太郎義盛、梶原平三景時等を彼所に遣わす。各甲直垂を著け、甲冑の郎従二十騎を相具す。件の首を黒漆の櫃に納め、美酒に浸し、高平の僕従二人之を荷担す。・・・観る者皆涙を拭ひ、両衫(そで)を湿ほすと云々」
鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡』が伝えるところでは、義経の首が鎌倉に届けられたのは6月(旧暦)でしたので、すでに誰のものか判別は付かなかったと思われます。そこから、義経は実は衣川で死んでいない、という話がはじまりました。真偽はともかく、義経の首が腰越から境川を遡ったこの地に運ばれた伝説は興味深いものがあります。その義経の首を葬ったところに建てられたのが白旗神社です。
白旗神社―⑨
白旗神社の創建年代は不明ですが相模国一宮の寒川神社と同じ、寒川比古命を主祭神としする神社でした。つまり、義経とは関係のない神社でしたが、後に鎌倉腰越で首実検されたその首は弁慶の首と一緒にこの地に飛んできた(あるいは境川を遡ってきたとも)といわれるようになり、鎌倉時代中期の宝治3(1249)年にここに祀られることになりました。
現在の社殿は江戸時代の末期の宝暦2(1852)年に作られた、立派な権現造です。
EPISODE 弥次喜多が立ち寄る
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に白旗神社が出ています。
・・・やがてむかふにわたりたどり行(ゆく)程(ほど)に、此に白旗村といへるは、そのむかし、義経の首ここに飛来りたるをいはひこめて、白はたの宮といへる、今にありと聞て弥次郎兵へ
首ばかり とんだはなしの 残りけり ほんのことかは しらはたの宮
寛文5年庚申塔など
正面の階段の左手に、たくさんの石塔が並んでいるのが目立ちます。これらは近傍にあったものが道路拡張などで取り払われたときにここに集められたものだと思われます。
その中の一つに、江戸初期の寛文5(1665)年の庚申塔があり、古い形式を残す庚申塔として貴重であるので、藤沢市有形文化財に指定されています。
また、杉山検校の建てた江ノ島道道標の一つがここにも置かれていますが、ここは江ノ島道ではないので、場違いです。市内の旧江ノ島道のどこかで埋もれていたものを移築したものでしょう。(いずれも2016年1月28日に撮影)
帰りは八王子道を南にとり、旧東海道にもどります。このあたりの道の左右には、農機具店や種苗販売店が並んでいます。おそらく江戸時代から八王子や厚木方面に向かうあたりの農家が鋤や鍬、種や苗を買いに来ていた名残ではないでしょうか。
旧東海道(国道1号線)に出る前に右折して商店街を進むと小田急線の藤沢本町に出ます。おつかれさまでした。
Question の答え 盲人の人たちです。杉山検校が江ノ島神社に参籠して鍼灸の極意を会得して以来、江ノ島神社は盲人の信仰が深くなりました。杉山検校が江ノ島道に建てた道標の文字が深く掘られているのも、盲人の皆さんが触って確かめられるようにしたためです。