遊行寺は通称で、正式には時宗総本山・藤沢山清浄光寺といいます。時宗を開いたのは鎌倉仏教の始祖の一人、一遍です。遊行寺は一遍が創建したお寺ではありませんが、全国の時宗の寺院を束ねる総本山で、代々の遊行上人が拠点とした寺ということから、遊行寺といわれます。仏教の宗派では禅宗や真言宗などと異なる念仏宗の系統である時宗の総本山として興味深いところです。鎌倉にも近いですから、ぜひ訪ねてみてください。
遊行寺を訪ねる
- 宗派 時宗
- 山号・寺号 藤沢山清浄光寺
- 創建 1325年(正中2年)
- 開山 呑海上人
- 宝物 一遍聖絵(国宝)
後醍醐天皇肖像(重文)など
〒251-0001 神奈川県藤沢市西富1丁目8−1
0466-22-2063
遊行寺ホームページ
JR藤沢駅改札から北に向かい、遊行通りをあるきましょう。国道1号線、つまり昔の東海道に出たら、藤沢橋の交差点を渡ります。右に曲がれば遊行寺坂です。遊行寺へは境川を赤い遊行寺橋で渡り、まっすぐ進む道が遊行寺前で鍵型に曲がる旧東海道を進みます。このあたり、広小路といって火よけのために道を広くしています。右手には藤沢市のふじさわ宿交流館と歴史資料館があります。帰りに寄ってみましょう。ここまでくれば正面に遊行寺の門が見えます。このあたりは東海道藤沢宿の一部です。
一遍上人と時宗
一遍上人
一遍上人 一遍上人(一遍智真 1239~1289)は生涯を「南無阿弥陀仏」と唱えること(念仏)と、「南無阿弥陀仏」と書いた札をくばること(賦算)の旅をひたすら続けた方です。そのような方が「聖」であり、旅を続けることが「遊行」です。一遍上人は自ら、「法師の跡とは跡なきを跡とす」といい、「畳一畳しきあれば、狭しとおもふ事もなし、念仏まふす起きふしは、妄念おこらぬ住居かな、道場すべて無用なり」と言い、教団を作ることやお寺を建てることを否定していました。
一遍、鎌倉には入れず 一遍は遊行の最も大事な場所として鎌倉に入ろうとしました。弘安5(1282)年のことでしたが、鎌倉に入ろうとした一遍の一行は、巨福呂坂(小袋坂か)で執権北条時宗によって阻止されてしまいました。このときのことは『一遍聖絵』という絵巻に詳しく描かれています(光照寺の項、北鎌倉の道の項を参照してください)。
片瀬での念仏踊 やむなく片瀬の浜に移り、その地の地蔵堂で約1ヶ月滞在し、念仏と賦算を行ったことです。一遍が念仏を唱えながら踊る興行を行い、近傍の人が沢山集まったといいます。その地蔵堂はいまはありませんが、『一遍聖絵』には見事にその様子が描かれており、そのあとと言われるところが片瀬に伝えられています。しかしこの時、寺を作ったわけではありません。
一遍の死 その後も遊行の旅を続け、正応2(1289)年、淡路で病を得、兵庫(神戸市)で亡くなりました。51歳でした。死に際して一遍は、持っていた書物などをすべて焼き払い、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言って、葬儀は行わないこと、遺骸は野に捨てて獣に施すことを遺言しました。ただ在家の者が仏縁を結ぶために供養したいというならそれにまかせよ、とも言っています。
時衆と時宗
・時衆と時宗 一遍に随って遊行を続けていた僧たちは、他阿真教を指導者として選びました。他阿もまた16年ものあいだ遊行を続け、その間にその信徒は「時衆」といわれるようになりました。時衆と言われたのは、一遍が一日を6つにわけて勤行の時間を定め、信徒はその時間を守って念仏したためです。信徒は長く時衆と言われましたが、江戸時代になって幕府の宗教統制の一つとしてその宗派を「時宗」という名でよぶことになりました。
・遊行寺の創建 第3代遊行上人の智得は、4代呑海に遊行させ、自らは第2代に続いて無量光寺で独住しました。次は呑海が無量光寺に入るはずでしたが、無量光寺の僧の中から異議が出て、呑海は無量光寺に入れませんでした。正中2(1325)年、遊行を終えた呑海は、この藤沢に道場を作り、独住に入りました。呑海は俣野の地頭俣野五郎景平の弟だったので、俣野氏から土地を寄進されたのです。これがこの清浄光寺(遊行寺)の創建です。俣野氏は鎌倉幕府に仕えた武士で、現在の藤沢から横浜にかけて俣野一帯を領していました。
・遊行上人と藤沢上人 呑海の藤沢独住以降、代々の上人は遊行を引退すると藤沢の地に独住しました。こうして遊行の旅を続ける上人を遊行上人と言い、藤沢に独住した上人を藤沢上人というようになりました。つまり上人が二人存在するというのが恒例となったのですが、明治になってこの形態は改められ、遊行上人は藤沢上人が兼ねることとなりました。
遊行寺の境内
いろは坂
現在の総門は簡素な黒い冠木門ですが、明治13年の大火で焼失するまで柱が四本ある屋根付きの四足門でした。門前の青銅製の立派な二基の燈籠は、天保12(1842)年に江戸の講中によって寄進されたものです。
いろは坂と塔頭 惣門からゆるやかな坂道がつづきます。この坂道は「いろは坂」といい、幅の広い石段となっています。江戸時代の再建間もない寛永2(1625)年に、江戸の信者の寄進で造営されたもので、江戸時代の錦絵にも描かれている古い石段です。
Question さて、この石段は何段あるでしょうか。ゆっくり数えながら登ってください(答えは後ほど)。
いろは坂の両側には今も真徳寺と真浄院という寺院があります。これらはいずれも遊行寺の塔頭といわれる子院です。現在、墓地になっているところにもかつては塔頭がありました。昔の遊行寺は現在よりもっと壮大だったのです。
途中の塔頭だった墓地にも見るものがありますが、それは帰りにしましょう。
仁王門跡 いろは坂を登り切ったところが平らになっており、左右に建物の土台だけが残っています。ここには明治13年の大火まで仁王門があり、「藤沢山」と書かれた東山天皇の勅額が掲げられていました。大火で仁王門は焼け落ちてしまい、再建されていませんが、右の錦絵でその姿を偲ぶことができます。東山天皇の勅額は難を逃れ、現在では本堂にあります。
ところで、石段は何段でしたか? いろは坂と言う名前から分かりますね。またその数は「弥陀の本願」といって、阿弥陀様がかなえてくれる渡したの「願」の数だそうです。(答えは最後に)
ここから広々とした境内が広がっています。左手に見える大銀杏は樹齢600年で藤沢市天然記念物とされています。2019年10月の台風で大きな枝が折れ、寄付を募って修復しつつあるそうです。
境内散策は後にして、まずご本堂をお詣りしましょう。
本堂
東海道随一と言われた木造銅葺きの本堂は、関東大震災で倒壊してしまし、現在の建物は、昭和10年に再建されたものです。堂々とした建築ですが、拝観料もなく、自由に参拝することができます。時宗らしいおおらかさですね。
本尊阿弥陀如来座像
荘厳な本堂には、内陣に本尊の阿弥陀如来坐像がおられます。ご本尊は鎌倉時代の寄木造、印相(御手の形)は上品下生印、金色に輝くお姿です。脇壇に宗祖一遍上人、二祖他阿真教上人、開山呑海上人の厨子が並び、立派な位牌が安置されています。
本堂にある「藤沢山」の扁額。もともと、いろは坂を登り切ったところにあった仁王門に掲げられていたもので、東山天皇の直筆だそうです。
明治の大火で仁王門は焼け落ちましたが、この扁額だけは焼けずに、ここに保管されています。
梵鐘
梵鐘は総高168cm、口径92cmの立派なもので、銘文に由れば、第8代遊行上人渡船のときの延文元(1356)年七月五日に、沙弥給阿を願主として、冶工大和守光連が鋳造したとあります。延文元年とは南北朝時代の北朝(足利尊氏方)の年号で、南朝では正平11年にあたり、南北朝の動乱が最も激しかった時期です。遊行寺の梵鐘が北朝型の年号を使用していることが注目されます。
・「大鐘も叩かれて初めて響く」 この大鐘の銘文には釈迦の誕生から説き起こして、この梵鐘の鋳造のいわれまで述べた長文で、中には「大鐘は響くものであるが、叩かれて初めて響く。釈尊の慈悲も人が問うことで初めて説かれる」といった意味の文が記されています。なかなか蘊蓄のある良い文ですね。
・戦国時代の遊行寺 戦国時代の永正10(1513)年、北条早雲が三浦道寸(義同)を攻めたとき、この地は戦場となり、遊行寺もすべて焼かれました。それ以後、江戸時代はじめに復興されるまで、遊行寺は約百年間、廃寺同然になったことがあります。そのころは藤沢上人もここに住むことができませんでした。三浦氏からこの地の支配権を奪った北条早雲はその時、この梵鐘を小田原に持ち去り、それからは軍用の合図の鐘に用いたそうです。
・中里理安と大鐘の返還 その小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、江戸時代となった1607年に、遊行寺が再建されました。しかし鐘はまだ戻されていませんでした。それを悲しんだ藤沢大鋸の住人中里理安という人が小田原藩と掛け合い、新しく鋳造した鐘と交換にこの大鐘を引き取り、遊行寺に寄進したのです。中里理安夫婦の墓は鐘楼の脇に造られています。
中雀門 江戸時代の建物
本堂の左手奥にあるこの御門は中雀門といい、特別な門として普段は閉められており、春と秋の開山忌や正月などだけ開門されます。この門は安政6(1859)年に徳川御三家の徳川治宝が建造したもので、明治の大火で焼けなかったので、遊行寺で江戸時代のものとして残っている唯一の建物です。関東大震災で倒壊しましたが、元通り修復されましたので、文化財としても貴重な建築物です。
四足門の形式で、欄干などに施された彫刻はみごとです。また正面には菊の紋がありますが、脇の黒門から入って中側から見ると、屋根の側面に葵の紋が見られます。一つの門に菊と葵の両方が付いているといるのはめずらしいですね。
門の内側には御番方といわれる受付や大書院(事務所・庫裏)があり、素晴らしい庭園があります。中雀門からは入れないので、左脇の黒門から入らせてもらいましょう。庭園は自由に拝観できます。
放生池 綱吉の命令で金魚銀魚の放流
大書院の右手には広い庭園が広がっています。春にはこの写真のような見事な白木蓮が開花します。3月中旬の花の季節にはぜひ訪れてみてください。
足下に広がる池は放生池といわれています。放生池というのは、生類憐みの令を出したことで有名な五代将軍徳川綱吉が、元禄7(1694)年にその一環として「金魚銀魚」を清浄光寺の池へ放流せよ、と命じたおとによります。金魚とは緋鯉、銀魚とは真鯉のことです。今でも4月21日にはもろものろの生き物を自然に帰す放生会が行われています。
南部右馬頭の墓 幕府滅亡の秘話
庭園を横切り、裏山に向かいます。坂を登る途中に、大きな墓塔と小さな五輪塔が並んでおり、石碑には「南部右馬頭茂時の墓」とあります。この南部茂時という人物は、『太平記』巻十に鎌倉幕府滅亡の時、東勝寺で北条高時以下の北条氏一門とともに自害した人の中にその名が見えます。つまり、北条氏の家臣だった人です。
その墓がこの寺にあるのは、寺の伝承によると、東勝寺で北条氏が滅んだときに、実は南部重時だけは敵軍を突破して脱出し、鎌倉から遊行寺まで逃れましたが、もはやこれまでとこの地で家臣と供に自害したといいます。大きな墓標は茂時の墓、小さな五輪塔は家臣の墓とされています。
宇賀神社 徳川氏との不思議な因縁
本堂の左手の坂道を登っていくと、小さいですが美しく整えられた宇賀神社にでます。この祭神の宇賀神は蛇の姿をした神で昔から庶民の間で子孫繁栄をかなえる神とされており、鎌倉の銭洗弁天のご本体も宇賀神です。この神がなぜ遊行寺に祀られているのでしょうか。
それは遊行寺と徳川家の深い関係があったからと言われています。実は徳川家の先祖、三河の松平一族の中で初めて「徳川」を名乗った有親という人は、徳阿弥という阿弥号を持つ時衆だったそうです。阿弥号とは世阿弥や観阿弥でも有名ですが、時衆が名乗るものなのです。時衆は遊行上人と同じように諸国を遍歴する商人や芸能者に多かったのです。で、商人ですから商売繁盛をねがい宇賀神を守り神とする人が多かったのです。徳川有親もそのような時衆のひとりだったのでしょう。その有親が室町時代の応永3(1396)年に守り神の宇賀神を遊行寺に勧請したと伝えられており、江戸幕府は先祖と関係の深い遊行寺を大切にし、宇賀神社の社殿を奉納したのです。幕府が奉納した宇賀神社は明治の大火で焼けてしまい、現在のものは規模を小さくして後に再建したものです。
・有親は家康の先祖? もっとも徳川有親という人は実際のところは家康とは関係がなかったようです。源氏の新田氏の一門に徳川(本来は得川)氏といいうのがいたのですが、松平氏とは関係がありません。三河の土豪松平氏から興って天下の将軍となった徳川家康はこの徳川有親を先祖とする家系図をつくり源氏の一門であるとしたたのですが、それは鎌倉幕府以来、将軍は源氏でなければならないとされていたからです。で、有親がなぜ三河の松平氏の関係があったか、ということの説明のため、有親は時衆であったので諸国を巡っており、三河に来たとき松平家と婚姻関係を結び、その子孫が徳川将軍家となった、という話をつくったのです。有親が時衆の一人だったというのは面白い話ですが、史実としては確かめることはできないようです。
歴代上人の墓
本堂の裏には墓地が広がっています。墓地の一番奥、高くなったところの一角は塀で仕切られており、歴代遊行上人の墓所となっています。のぞかせていただくと、中央に開山遊行上人の墓というひときわ大きな卵塔(僧侶の墓塔)がありますが、この開山というのは第4代の呑海上人のことです。その左右にそれ以降の歴代遊行上人・藤沢上人の墓石が並んでいます。
勘違いしてしまいますが、一遍上人はこの寺の開山ではありませんから、その墓はここにはありません。一遍の墓所は、終焉の地、神戸の真光寺にあります。また第2代他阿上人の墓は伊勢原の当麻山無量光寺にあります。
・江戸時代の遊行上人 遊行寺と徳川家は深い関係があったので、江戸幕府は遊行寺を大変優遇しますた。遊行上人の全国遊行に際しては宿場の伝馬50匹を使用する大名並みの権利を与えたのです。それによって江戸時代の遊行上人の遊行は、一遍上人の時代のような質素な旅とまったく違って、豪勢な行列になり、それを迎える大名や領主は歓待の為の出費がかさみ、苦しんだそうです。現在の遊行寺からは考えられませんが、この歴代上人の墓に収まっている上人の中には、豪華な遊行をしてひんしゅくを買った方もいたのでしょう。
塔頭 長生院
遊行寺の境内の一番奥まったところにある長生院は、塔頭の一つで、ご本尊の木造阿弥陀如来坐像は平安時代後期の定朝様式で造られた貴重な仏像です。典型的な上品下生印を結び、寄木造で造られています。また長生院には貴重な文化財として、延文元(1356)年と永和三(1377)年の年代の分かる「板碑」が保管されています。
・板碑とは 鎌倉時代から江戸初期までに造られた石造の卒塔婆(墓塔とも言える)の一種。一般的な板碑は薄い板状で頂部を山形にし、本尊を種子(仏を表す梵字)として供養者名などを陰刻し、野外に建てています。鎌倉では材木座の五所神社、光明寺、長谷寺宝物館などで実例を見ることができます。
・長生院の板碑 時宗の板碑の場合は「南無阿弥陀仏」の名号を彫りつけるのが特徴です。長生院の板碑は時宗板碑で、いずれも緑泥片岩で造られた「武蔵型板碑」といわれるもので、一基には「延文元(1356)年、経阿弥陀仏、十二月三日」とあり、もう一基には「本阿弥陀仏百ヶ日為、永和三(1377)年丁巳十月十七日」とあり、製造時期が分かります。この二基の板碑は江戸時代末に遊行寺境内から発掘されました。
小栗判官と照手姫
長生院は小栗堂とも言われ、小栗判官と照手姫の物語で有名です。この話は、仏の功徳を庶民に教えるための説経節の題材として広く語り伝えられ、また近松門左衛門が歌舞伎に仕立てて大当たりを取りました。照手姫が尼となって創建したというこの長生院です。境内には小栗主従と照手姫の墓があります。
EPISODE 小栗判官と照手姫の物語
室町時代の中頃、常陸の豪族小栗判官満重は関東管領足利持氏に攻められて敗れ、家臣とともに逃れる途中、藤沢で横山大膳という者の家に泊まりました。その家の娘照手姫と小栗判官は夫婦の契りを結びましたが、盗賊の頭である大膳は小栗主従を毒殺して金を奪っていまいました。小栗判官の死を知った照手姫は世をはかなんで自殺します。ところが小栗判官は遊行上人の力で餓鬼道から助け出され、土車に乗せられて熊野に運ばれ、湯の峰で回復します。一方照手姫も観音の力で生き返り、諸国で苦労を重ねる途中、小栗と再会し、二人は大膳に復讐を遂げました。この話は、仏の功徳を庶民に教えるための説経節の題材として広く語り伝えられ、また近松門左衛門が歌舞伎に仕立てて大当たりを取りました。そのもとになった話を伝えているのが、照手姫が尼となって創建したというこの長生院です。
石塔のいろいろ
堀田家三代の墓
本堂の右手、長生院(小栗堂)に向かう道に沿って、大きな墓石が並んでいる。
中でもひときわ目立つのが、先頭角柱型の5基の石塔である。それぞれに説明板が付いており、それによるとこれは江戸時代の大名で幕閣でも重きをなした堀田家3代の墓で、堀田正利夫妻・堀田正盛夫妻・堀田正仲のもの。建てたのは正盛の子の堀田正俊で、延宝5(1677)年・延宝9(1681)年。正仲は正俊の子。
・堀田家とは 堀田家は江戸幕府の中で重要な地位に就いた一族でした。初代堀田正利(正吉とも。1571-1629)は織田信長、浅井長政などに仕え、関ヶ原の後、幕府に仕えた。その子堀田正盛(1609-1651)は徳川家光に仕えて大名に取り立てられ、始め川越藩、後に佐倉藩主となりました。幕閣では老中・大老をつとめて家光を支え、家光が亡くなったときに殉死しました。その子の堀田正俊は春日局の養子となって頭角を現し、古河藩主として徳川綱吉擁立に功績をあげ、幕政で重きをなしまして大老となりましたが、貞享元(1684)年に殿中で刺殺されるています。理由は剛直な性格が恨まれたためのようです。堀田正俊と遊行寺の関係はよくわかっていないようですが、正利の代から時宗の信者であったことから一族の供養塔を遊行寺に建てたようです。堀田家では幕末の開国政策を進めた老中堀田正睦がいます。
酒井忠重の五輪塔と六地蔵
ひときわ目立つ大きな五輪塔は寛文6(1666)年の銘のある、酒井忠重の墓石です。酒井長門守忠重は鶴岡城城主酒井忠勝の弟で出羽国庄内藩主。万治3(1660)年逆修のために遊行寺に光岳院という念仏堂を建立して寄進しました。逆修とは生前に初七日などの仏事を営むことです。
五輪塔は平安末・鎌倉時代から盛んに作られた墓塔の一種で、江戸時代には大名などが競って大型のものを造っています。鎌倉の妙本寺には加賀の前田家のものがあります。
隣の六地蔵は同じく忠重が逆修のために造立したものです。このうちの一体に「萬治三庚子歳一月十五日 右六地蔵之尊容者為逆修調制之所令寄進也 天賀地蔵菩薩 施主酒井長門守忠重敬白 藤沢山住持十七代佗阿弥陀佛記」とあります。万治三年は1660年ですから、ゆうに350年以上前から変わらぬ姿であることが分かります。
・酒井忠重 この施主である酒井忠重とはどんな大名だったのでしょうか。調べてみるとあまり褒められた人物ではなさそうです。庄内藩主としては所領の白石郷の百姓から重い年貢を取り立てて、百姓一揆が起こっています。またもともと兄忠勝の子を廃して自分の子を本家の鶴岡藩主にしようとして、お家騒動になったり、と芳しくありません。山形出身の藤沢周平は短編歴史小説「上意討ち」で忠重について書いています。
敵味方供養塔
この供養塔は、「怨親平等碑」ともいわれます。室町時代の応永23(1416)年に起こった上杉禅秀の乱の時、戦いの犠牲となった将兵と、さらに動物たちまでふくめて、供養をしたもので、貴重な歴史資料となっています。銘文は風化して読むのは難しいのですが、
「応永二十三年十月六日より兵乱。同二十四年に至る。在々所々において敵味方剪刀水火に落命の人畜亡魂皆ことごとく往生浄土の為の故也。此の塔婆の前を過る僧俗十念有るべき者なり。応永二十五年十月六日」
と読めます。十念とは、念仏を十回唱えることです。この供養塔を建てたのは、前年に藤沢上人となった、14代遊行上人太空です。
室町時代の戦乱で殺し合った武士たちが、戦いの後に敵も味方もなく戦死者を供養し、また犠牲となった庶民や獣までその死を弔う心をもっていたのです。
この石碑はそのような心を持った人たちがいたことを伝えているのであり、この遊行寺の中でも最も重要な遺物ではないでしょうか。
・上杉禅秀の乱とは 室町時代の中頃、室町幕府の将軍は第4代足利義持でしたが、鎌倉の実権は鎌倉公方足利持氏が握っていました。上杉禅秀(氏憲)は関東管領として持氏の政治を支える立場にありましたが、上杉氏の内紛もあって持氏と対立、1416年遂に反旗を翻しました。将軍義持の弟の義嗣、鎌倉公方持氏の叔父の満隆らも加わり、室町幕府を脅かす反乱となりました。そのため鎌倉公方足利持氏は鎌倉を追われ駿河に逃れました。幕府は持氏救出のため、今川範政ら幕府軍を派遣、翌年、上杉禅秀は敗れ、鎌倉雪の下で自害し、乱は収束しました。室町幕府は危機を乗り切ったものの、その衰退のきっかけとなった動乱でした。
Question の答え いろは坂の石段の数 48段です。いろは48文字でもわかりますね。また「弥陀の四十八願」も浄土教の教えではよく出てきます。
・次はどこ行く? 遊行寺の参拝を終えたら東海道の宿場町だった藤沢宿の散策がいいでね。遊行寺を出たところにある藤沢市のふじさわ宿交流館で一休み、コースを練ってください。西に向かって宿場町を歩き、小田急江ノ島駅に行くのもよし、南に戻って江ノ島道・遊行通りを通り、JR藤沢駅に行くのも良いでしょう。藤沢宿はけっこうひろいですよ。じっくり回るのは別の機会にした方が良いかもしれません。 → 東海道藤沢宿を歩こう
・参考図書 『藤沢と遊行寺』藤沢市史ブックレット2 高野修著