谷戸の奥の美しい寺
海蔵寺は扇ヶ谷の最も奥まった谷戸にある禅宗の寺。早春の梅、秋の萩、冬近い時期の紅葉と、季節ごとの美しさを見せる古刹です。また山門前には十井のひとつ「底抜けの井」があり、近くには謎めいた「十六の井」があります。北鎌倉につながる山々の緑を背景として佇む海蔵寺は、鎌倉でも人気の寺院の一つ、さっそく訪ねてみましょう。
- 宗派 臨済宗建長寺派
- 山号 扇谷山
- 寺号 海蔵禅寺
- 開山 空外和尚(源翁)
- 開基 上杉氏定(扇ヶ谷上杉)
- 創建 応永元年(1394)
- 本尊 薬師如来
- 鎌倉三十三観音第26番
鎌倉二十四地蔵第15番
- 〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目18−8
- 0467-22-3175
- 拝観料 100円
海蔵寺の境内
総門
海蔵寺の創建時期ははっきりしませんが、もともとこの地には真言宗のお寺があったといいます。鎌倉幕府の末期、1333年に新田義貞軍はこの近くの化粧坂から鎌倉に攻め入りました。そのときの戦いでこの寺は焼け落ち、室町時代になってから応永元年(1394)、その地に扇ヶ谷上杉氏の四代目の氏定が建てたのが海蔵寺とされています。
秋には石段の両側は萩に覆われます。そこを登ったところにある総門は、寺伝によれば応仁2年(1468)修造と伝えられています。
庫裏の前庭
本堂と庫裏
正面が海蔵寺の本堂。右手の立派なかやぶき屋根の建物は庫裏です。そして左手の本尊の薬師三尊を安置する薬師堂があります。
仏殿(薬師堂)
本尊の薬師三尊は鎌倉市指定文化財で、啼薬師(または児護薬師)と言われています。薬師三尊を治める薬師堂は、棟札に戦国時代の天正5年(1577)建立とある建物で、江戸時代の安永6年(1777)年に北鎌倉の浄智寺から移築したといいます。
薬師堂には、正面に薬師如来、左右に脇侍の日光菩薩、月光菩薩の薬師三尊が安置されています。この薬師像は「啼薬師」といわれる不思議な伝説があります(次のエピソード参照)。薬師三尊の左右にはよく見ると十二神将が並べられています。
コラム 海蔵寺の啼薬師
海蔵寺の裏山から毎晩子供の泣き声が聞こえるので、源翁和尚が見に行くと、金色に輝く小さな墓の中から聞こえるのでした。和尚が墓石に袈裟を掛けると鳴き声はぴたりと止みました。翌朝掘り起こしてみると地中から木彫りの薬師さまの首だけが出てきました。そこでそのお首を胎内に納めてつくったのがこの「啼薬師」だといいます。
現在の薬師如来は数十年に一度、その胸を開けて、胎内の首だけの薬師様を拝観できるそうです。右はそのときの貴重な写真です。
庭園
本堂裏手の庭園は、すばらしい禅宗様式で造られており、本堂の左手から拝見することができます。
境内のやぐら
海蔵寺境内とその周辺には、いくつかの「やぐら」が残されており、墓や蛇神をまつる祠とされているのが見られます。
海蔵寺の四季
春
海蔵寺の梅。いずれも2019年2月12日に撮影しました。
夏
秋
「底抜けの井」とその周辺
海蔵寺の総門右手には「鎌倉十井」の一つ、「底脱の井戸」があります。安達泰盛の娘千代能が水をくんだところ桶の底が抜けてしまいましたが、娘は
千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらず
と詠んだといいます。桶の底が脱けたとは、悟りが開けたという禅の境地を意味しているのです。
この千代能については、一説には上杉氏の娘とも言います。史実であるかどうかは定かではありません。 → 鎌倉十井
海蔵寺の周辺
海蔵寺の入り口には五段の石塔(五山石とも言います)があります。そこを右手に入っていくと、寺の庫裏の脇を通って谷戸の奥に進む道があります。この道は行き止まりで、かつて源頼朝が切り通しを作ろうとした尾根にぶつかります。その工事は谷奥から蛇がたくさん出てきたために中止になり「蛇が谷」とも言われたそうです。現在は源氏山・葛原岡神社から北鎌倉・浄智寺に抜けるハイキングコースが中止された切り通し工事跡の上を通っており、そこから海蔵寺の谷戸を見下ろすことができます。
最後の写真は、海蔵寺裏ではなく、海蔵寺に入る前の左手にある駐車場に面したもので、やぐらの一つかと思われます。
「十六の井」
海蔵寺の境内の総門左手から細い道を辿っていくと、「十六の井」という不思議なところに出ます。山際の洞窟内に、16の丸い穴が並んでおり、水をたたえているものです。
言い伝えでは弘法大師のために用意された井戸で、この水は飲めば悪病の癒える「金剛功徳水」ともされています。16という数字に仏教的な意味があると説明され、仏教的な解釈が行われていますが、実は「やぐら」の一つで、穴は納骨に使われたものであろう、と考えられます。
鎌倉では同じようなやぐらが、宝戒寺の裏手の山腹にも見られるそうです。「鎌倉十井」には入れられていませんが、中世の鎌倉の貴重な遺跡であることは確かです。