鵠沼海岸へ
小田急鵠沼海岸駅から下車、海岸に向かって歩きます。静かな住宅街を抜け、湘南道路を陸橋で渡ると、そこはもう鵠沼海岸です。右手の川は引地川、県央の大和市泉の森を水源にした川です。
陸橋の右手にある区画が、中国人作曲家聶耳の記念碑です。この人は一体どんな人でしょうか。その先に広がる砂浜の一帯が鵠沼海岸です。特に芝生と松林に覆われたあたりは県立湘南海岸公園となっています。西には晴れていれば富士山や伊豆の山々が眺められ、正面には江ノ島が間近に見えます。まず聶耳の記念碑を訪ねましょう。
聶耳記念碑
聶耳 Nieer は1912年に、中国の雲南省昆明に生まれ、早くから音楽の才能を発揮し、1930年に上海に出て活動を開始した。翌年、満州事変が起こり、彼の周りの若者の中に民族の自覚、社会改革への意欲が高まっていった。北京(当時は北平と言った)の音楽大学受験には失敗したが、独力で作曲を学び、上海の映画会社に就職した。1935年に映画「嵐の中の若者たち」を制作にかかわりその音楽を担当することになった。国民党政府による弾圧が強まったこともあって同年4月、聶耳は日本に渡り、東京で音楽の勉強を続けながら、映画の挿入曲として「義勇軍行進曲」を作曲して上海に送った。しかし7月17日、夏の遊びに鵠沼海岸で海水浴に出かけ、溺れて亡くなった。わずか23歳だった。
ところが彼の作曲した義勇軍行進曲のメロディーは、田漢の作詞とともに中国の若者に広く受け入れらることになった。特に華北分離工作を進める日本軍の露骨な侵略に対する反発が北京の学生に強まり、同年12月に十二・九学生運動が起こると、参加した若者はこの曲を歌い、団結を強めた。それいらい中国共産党の抗日運動を鼓舞する曲として使われるようになり、ついに1949年10月、中華人民共和国が成立すると、正式にその国歌となった。遠く日本の鵠沼海岸で水死した青年が作曲した曲が、現在の中国の国歌なのだ。
戦後、日中関係はとざされたままであったが、1970年代から日中国交正常化の動きが出るなかで藤沢市民の中に聶耳の記念碑を鵠沼海岸に建てようという動きが起こり、その死後50年の1985年に記念碑建設が決まり、1986年に完成した。当時の藤沢市長葉山峻氏による記念碑の由来の石碑が傍らに置かれている。
2023年7月24日に訪れたところ、正面の聶耳の肖像のある石碑は、すっぽりとビニールで覆われていた。中国の国歌の作曲者の碑がここにあるのを喜ばない人が、ペンキでも塗って汚すかもしれない、と恐れた藤沢市の予防策であろう。
彼は自分のつくった曲が新生中国の国歌になるだろうとはまったく思わなかったに違いない。国歌の作曲者として見るのではなく、一人の中国人の音楽家が、日中が険しい関係だった時代に日本に遊学し、素晴らしい曲を残してこの地で不慮の事故で亡くなったことを悼むだけでよいのではないだろうか。ペンキをかけたい人がいるのだとしたら、何か心寒い状況ではないか、と感じました。