江ノ電長谷駅を下車し、大仏や長谷寺に向かう観光客を尻目に、踏切を渡って南に向かい、海岸の方に向かいましょう。鎌倉の中心部から離れ、観光コースではありませんが、サーファーとこぎれいなカフェと並んで、昔の漁師町の雰囲気が残る味わい深いルートです。
途中にはほとんど知られていない、地元の人たちが守り続けている「路地裏の神々」を祀る小さな神社を訪ねるコースでもあります。ではぼちぼちでかけましょう。
長谷駅付近
長谷御嶽神社
車の往来が激しい海岸道路に面し、ほとんど目立たないこの神社は、「大太刀稲荷」・「網守稲荷」・「御嶽神社」が合祀されたものです。鳥居右脇の「庚申はせかん音道」とある道標を兼ねた庚申塔は正徳2(1722)年のもで、かつてはもっと西にありました。
ほかにも庚申塔やお地蔵さん、御嶽・八海山・三笠山・富士山など山名を彫り込んだ自然石の石碑がたくさん並んでいて、不思議な感じがします。山名の碑は修験道(山伏)が盛んになった幕末から明治にかけて、長谷新宿といわれるこの地区の村人が建てたもので、その熱心な信仰心が偲ばれます。しかし明治になってから政府によって修験道が禁止になったため、今ではすっかりすたれてしまいました。この所狭しと並べられた石碑に、江戸時代の山岳信仰の盛んだったことがわかります。
稲瀬川
稲瀬川は行ってみると小川のような目立たない川ですが、実は鎌倉にとっては大事な川で、また有名な川でした。
万葉集巻十一に
真愛しみ さ寝に吾は行く鎌倉の 美奈能瀬川に潮満なむか
と歌われているのが稲瀨川です。
鎌倉の市街に入るには必ず渡らなければならない川なので、小さな川ですが昔から重要だったのです。『吾妻鏡』によれば、頼朝の妻政子が初めて鎌倉に入るとき、日が悪かったので稲瀨川手前の民家に一泊してから御所に入ったとされており、ここが鎌倉の入口だったことが判ります。
新田義貞の鎌倉攻めではこのあたりも兵火にかかったことが太平記に出てきます。
しかし最も有名なのは、歌舞伎の『白浪五人男』稲瀨川勢揃いの場の舞台となったことでしょう。この写真は歌舞伎の公演より。
坂ノ下海岸
・源実朝歌碑
三代将軍源実朝は、かねてから宋に渡ることを熱望していました。そこで、宋人陳(ちん)和(な)卿(けい)に命じ、唐船を造らせました。1217(建保5)年4月17日、将軍実朝・執権北条義時らが見守る中、完成した大船を由比ヶ浜からに海に引き出しました。しかし、砂浜の深さが足りず、船は浮かぶことができませんでした。大船は浜に引き戻すこともできず、そのまま朽ち果てるまで放置されたと言うことです。
世の中は 常にもがもな 渚ごく 海人の小舟の 綱手哀しも
この歌は「小倉百人一首」にも採られた実朝の代表作です。朽ち果てていく船を眺める心情を詠んだのでしょうか。
その失敗から、後に北条泰時は、材木座のはずれに、中国からの大船も入港できるような港として、和賀江島を築港することにしたのです。
路地裏の神々
「坂ノ下」は昔ながらの漁師の住まいが狭いところに密集し、今でもシラス漁などを続けています。狭い路地の一角には、漁民の信仰したお稲荷さんがいくつか見ることができます。
星ノ井通りから路地を入ると、海が見えてきます。こちらの左手は、シラス漁の喜楽丸さんが朝獲れのシラスを売っています。ただし、シラス漁は4~6月と8~10月ごろで、時期で無いと生のシラスはありません。
・芝居の稲荷 「お稲荷さん」はどこでも見かけますが、個人の屋敷内に設けられる「屋敷の稲荷」に対して、町中にあるのは「辻の稲荷」といいます。坂の下の「辻の稲荷」は、「芝居の稲荷」と言われて、大小がありますが、芝居というのは昔は柴や薪をおいたところだったところから、そういわれたのかもしれません。坂ノ下で醸造業と廻船業を営んでいた安斉家の脇の路地奥には「親稲荷」があり、それに対して辻の稲荷は分家筋といえます。最近は家の新築に伴い、「屋敷の稲荷」は取り壊されることも多いそうです。
最近、路地裏にもしゃれたカフェが次々と作られています。坂ノ下の素朴な漁師町の風情も少しずつ無くなっていくのでしょうか。
星の井
鎌倉の歌枕は「星月夜」です。万葉集に、次の歌が載せられています。
われひとりかまくら山をこえゆけば
星月夜こそうれしかりけれ
昔、上方から鎌倉を目指した旅人は、極楽寺坂を越えて鎌倉の町並みが見えてホッとし、坂を下りたところで一休みししたのでした。
明治時代までは井戸の前に茶店があり、旅人に水のサービスをしていました。これは古い絵はがきに残された、星ノ井で水が売られていた頃を伝えています。
ここまで来れば鎌倉に着いたことになります。また「星と月」の印は戦前まで鎌倉市の市章として使われてました。
- 鎌倉十井 鎌倉は大きな川がないので、水を得るのに井戸が頼りでした。市内には大切にされた井戸がたくさん残っていますが、その中の代表的なものを「鎌倉十井」と言っています。この星ノ井(星月井)はその中でもよく知られた井戸でした。 → タグ 十井
虚空蔵堂
極楽寺坂の登り口にの右手、星の井の脇の階段を上ったところが虚空蔵堂です。お堂に祀られている虚空蔵菩薩は、奈良時代の僧行基がここで虚空蔵求聞持の法を修行していると、星明かりに照らされた井戸(つまり星の井ですね)の中に、黒光りする石が見え、その石を拾い上げて彫った像と伝えられています。
虚空蔵菩薩は、地蔵菩薩が大地を象徴し地上の衆生を済度する慈悲の菩薩であるのに対して、天空を象徴し広大無辺な仏の功徳を教える知恵の菩薩とされます。従って古来、虚空蔵菩薩は「知恵、記憶力」を授けてくれる仏であると信じられ、学業の成就を手助けしてくれるという庶民の信仰を集めています。全国各地にある「十三参り」は、児童が学業の成就を願い、集団で虚空蔵菩薩をお詣りする習わしで、昔は盛んに行われていました。私は福島の会津で育ちましたが、小学校の終わり、六年生の時に会津柳津の虚空蔵堂にお詣りに行ったことを思い出します。
この坂ノ下の虚空蔵菩薩は秘仏とされ、35年に一度の開帳でしたが、現在は毎年正月13日に開帳されて、近隣の受験期の子供たちがお詣りしています。正月7日に参詣したところ、拝観できました。秘仏の虚空蔵菩薩を撮影するのは気が引けましたが……。
また本殿の脇には、坂ノ下漁港の漁民の守り神の舟守地蔵も祀られています。この虚空蔵菩薩と舟守地蔵は現在では成就院の管轄になっています。
ここからが極楽寺坂の登り口で、右手に虚空蔵堂の白い登りを見ながら上っていくと、左手は墓地があり、六地蔵を過ぎて左手に成就院が見えてきます。
- 力餅家
星ノ井の前の通りを「星ノ井通り」といい、坂ノ下のメイン道路です。坂ノ下御霊神社の面掛け行列(9月18日)もこの通りを往復します。
今日は極楽寺坂には上らず、ここから引き返しましょう。長谷駅方面にしばらく戻ると、大きな道標があり、「はせくわんのん道」と「五霊社鎌倉権五郎」と力強い書体の文字が彫られています。ここから左に入ると、御霊神社の参道であり、その脇から御霊小路を通って長谷寺に行く道になります。
この道標の前にあるのが力餅家で、鎌倉名物夫婦饅頭という大きな看板がめだちますが、いたって古風なこぢんまりした店構えのお店です。力餅とは、御霊神社の祭神の鎌倉権五郎景正が力持ちだったことに由来する、坂ノ下の名物の餅です。
散歩の一休み
星ノ井通りに面したパン屋さん。
すぐ裏がカフェになっています。
[カフェ ルセット鎌倉]
坂ノ下の稲荷の路地にある民家カフェ。
一も若い人が並んでいます。
[カフェ サカノシタ]