菅原道真を祭神とする、鎌倉最古の神社。学問の神様として受験期には多くの学生が参拝します。そしてその時期は天神さまにゆかりの紅白の梅が全開。小さな神社ですが意外な歴史も有しています。早春のひとときの鎌倉散歩には最適の神社です。
ご案内
- 祭神 菅原道真 素戔嗚尊
- 創建 長治元年(1140)
- 例祭 7月25日 神幸祭7月20日
- 神事 初天神・筆供養 1月25日
針供養 2月8日 - 〒248-0002 神奈川県鎌倉市二階堂74
鎌倉駅東口 京急バス大塔宮行き 天神下車 1分 または鎌倉駅から徒歩約20分
荏柄天神の参道
荏柄天神への参拝は、通常はバスを利用するか、鶴岡八幡宮の参拝のあとに横国大付属小のグランド脇から入り、頼朝の墓の前を通って参道の途中からお参りする、徒歩のコースを取る方がほとんどです。
しかし、荏柄天神の一の鳥居は、すっと南の金沢街道に面したところにあります。鎌倉時代はこの道が鎌倉と東部を結ぶメインルートでしたから、参道はそこから始まっているのです。荏柄天神参拝は、この本来の参道を通るべきです。と、こだわる方はこちらの道を選びましょう。
特に合格祈願の方は、一の鳥居から参拝しないと天神さまのご機嫌を損ねるかもしれませんよ。
鳥居の左手に6基の庚申塔が並んでおり、最も古いものは元文5(1740)年、ユーモラスな青面金剛像が見られるのは寛政12(1800)年のものです。
参拝へ
鎌倉最古の建造物 本殿
荏柄天神は梅が有名ですが、史跡として重要なのはその本殿と拝殿の建築です。手前の拝殿は、関東大震災で罹災し、その復興工事にあたり、鶴岡八幡宮の仮殿を移築したもです。そして奥の本殿は、鎌倉末期の1316(正和5)年に再建された鶴岡八幡宮若宮(下宮)を、江戸初期の1622(元和8)年に改築した際に移築したものと言われており、鎌倉に現存する最古の木造建築であり、鎌倉期の建築様式(権現造)と資材を伝えてる貴重なものとして国の重文に指定されています。。
鎌倉幕府の鬼門の守りに位置していた荏柄天神は、幕府から重視され、その建物は鶴岡八幡宮の建物を譲り受けることが通例になっていました。
正面からの参拝が終わったら、左手の筆塚に上り、そこから本殿と拝殿の全景を観察してください。
境内ところどころ
鎌倉一の大銀杏
境内の大銀杏は1104年に天神さまの画像が降ってきたところに植えたもので、今も神木として大切にされています(この話は後で)。
2010年に八幡宮の大銀杏が倒壊したので、現在鎌倉で最古で最大とされています。鎌倉市の天然記念物に指定されています。
筆塚と絵筆塚
拝殿脇には使い終わった筆を納める箱があり、今でも筆供養が行われています。現代の漫画家が奉納した絵筆塚もあり、著名な漫画家の寄せ書きが見られます。
手塚治虫のアトム、藤子不二雄のドラえもん、その他、有名無名の作家のサイン入りの絵の中から、好きな作家のものを探し出してみましょう。
さてアトムやドラえもんはどこにいるかな。
階段下の筆塚は、文字は川端康成、カッパの絵は清水崑です。2月8日の筆供養では、画家が使い古した筆を炊きあげて供養しています。
荏柄天神の梅
ここまでは2月に撮影
荏柄天神の大銀杏
門の外
荏柄天神 ミニヒストリー
菅原道真
荏柄天神の祭神は菅原道真ですが、実際にはどんな関係があるのでしょう。この地に菅原道真が祀られるようになったいきさつは次のようなものです。
- 天神さまが降ってきた 伝承によれば、1104(長治元)年に、当時荏草郷と呼ばれた里で、にわかに空から天神の画像が降ってきました。天神とは菅原道真で、古来恐ろしい神様で、その怒りを静めるため各地で天神さま、あるいは天満宮として祀られています。荏草郷の里人も、その怒りを畏れて、画像が降りたところに神木を植え、社を建てました。それがこの荏柄天神の始まりだ、といいます。
- 鎌倉幕府の鬼門 源頼朝が1180年に大倉の地に幕府を開いたとき、当時広く信じられていた陰陽道で、邪悪な鬼が出入りするとされていた東北の方角を守る幕府の守護神として、この荏柄天神を崇敬し、保護することとしました。それ以後、荏柄天神は幕府にとって重要な社として保護され、公式記録『吾妻鏡』にも何度か出てきます。
- 学問の神様 鎌倉時代は、中期以降に禅宗が盛んになったことはよく知られています。建長寺や円覚寺などの五山の禅僧は、学問を好みましたから、学問(漢文学)の祖ともいえる菅原道真を崇拝していました。同じく道真を祭神とする京都の北野天満宮に倣って、鎌倉でも学問の神さま祀る荏柄天神への崇拝がより強くなりました。その伝統が現在に続き、今ではシーズンになると、受験の合格祈願でたいへんな賑わいになります。
- 日本の三天神 菅原道真を神さまとし、天神様、あるいは天満宮として祀ることは全国に広がっており、全国の神社数で言うと八幡信仰、伊勢信仰に続いて第三位(3957社)です。そのうち、太宰府天満宮・北野天満宮と並んで荏柄天神は日本三天神ともされています(一を北野、二を太宰府、三を防府、荏柄を別格とする説もあります)。
- 怒り天神像 荏柄天神の社宝は弘長元(1261)年銘のある衣冠束帯姿の木造の天神立像で、両眼を見開いた恐ろしい顔から世に「怒り天神」として知られています(像高88.7cm)。この他、天神信仰に関わる文化財として、荏柄天神縁起絵巻(前田育徳会所蔵)など多数が伝えられています。
コラム 菅原道真と飛び梅伝説
菅原道真は代々学者の家に生まれ、右大臣にまで昇進した。それを喜ばぬ左大臣藤原時平は策謀をめぐらせて道真に罪を負わせ、延喜元(901)年、大宰権帥(九州の太宰府の副長官)に左遷してしまった。翌々年、道真は配所で亡くなったが、その直後から宮中に落雷などの災害があって官人が死ぬなどの天変地異が続いた。それは道真の祟りと恐れられ、延長元(923)年、道真の罪は取り消された。
その後道真は天満天神と言われる学問の神さまとして広く崇拝されるようになった。
太宰府に流された道真は、都の屋敷の庭の梅の木を思い出し、
東風吹かばにほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ
と詠んだ。すると梅の木は都から太宰府まで空を飛び、配所の庭に花を咲かせたのでした。
そのため、菅原道真を祀る天神さまや天満宮では、梅の花が神紋とされている。
江戸時代の荏柄天神
ここに江戸時代に徳川光圀(黄門)の命で編纂された『新編鎌倉志』の荏柄天神社図があります。
この図を見ると、参道がまっすぐ伸び、金沢街道に接していたことが解ります。
現在は、荏柄天神の参道は鎌倉宮に通じる道とクロスしていますが、江戸時代には鎌倉宮参道はありません。鎌倉宮は明治時代に作られ、その参道がつくられたのもそのときです。
社殿も現在と違い、三棟描かれています。
もう一つ、現在とちがうのは、参道の右手に、 一乗院という建物があることです。一条院は荏柄天神を管理する別当寺で、このように神社をお寺が管理するというのが神仏習合だった江戸時代までは普通のことでした。
ところが、明治初めの神仏分離令で神社と寺院は分離され、多くの寺院が取り壊されてしまいました。この一条院も跡形も無くなり、現在は住宅地になっています。荏柄天神の裏山の墓地には一乗院だった時代の墓石が残っているそうです。
また参道の左側には「和田胤長旧宅」という説もある、と書かれており、和田一族の邸宅があったとも考えられます。
『新編鎌倉志』は江戸時代初めの様子を知らせてくれますが、荏柄天神の前の平地は一条院以外はほとんど田んぼだったことが判ります。この荏柄天神の絵図も、明治維新で日本人の親交のあり方が大きく変わったことを教えてくれます。