浄妙寺

 浄妙寺は鎌倉幕府の有力御家人足利氏が創建したことで、室町時代に鎌倉五山第五位に位置付けられ、大寺院として栄えました。現在はかつての繁栄から遠くなっていますが、境内には足利氏関係の史跡が多く、また貴重な仏像や文化財が伝承されています。
 境内には茶堂・喜泉庵、近くには石窯ガーデンテラスがあり、落ち着いた雰囲気で一服することも出来ます。なお、浄妙寺のある一帯は浄明寺という住所表示になっており、一字を変えたのは寺を憚ってのことだと言います。

ご案内

  • 宗派 臨済宗建長寺派 
  • 山号 稲荷山とうかさん
  • 開山 退耕たいこう行勇ぎょうゆう  
  • 創建 文治4(1188)年
  • 開基 足利義兼  
  • 鎌倉五山の第5位
  • 鎌倉三十三観音霊場 第九番札所

 鎌倉駅東口から京急バス金沢八景方面行き(鎌倉霊園、大刀洗行でもよい)に乗車、15分ほどの浄明寺バス停で下車、左手に入るとまもなく浄妙寺山門につきます。参道は桜並木になっていてすばらしい。
 〒248-0003 神奈川県鎌倉市浄明寺3丁目8−31  Tel:0467-22-2818
 拝観料 100円

浄妙寺境内

 三門前左手の石塔は、鎌倉五山の寺院などで見られるもので「五山石」ともいわれます。緑の山を背に、左右には静かな住宅街が広がる、鎌倉らしい雰囲気。門をくぐり、入山の手続きをすますと正面のゆったりとした屋根の本堂がみえます。

雨の浄妙寺

 2017年6月14日。雨。濡れた歩道を進む。左右の緑の小さな植え込みは茶の木です。

本堂

 浄妙寺の本堂は、印象的なゆったりと盛り上がった形で、このような屋根を「むくり屋根」というそうです。たの鎌倉五山の同じ禅宗寺院では見かけません。もとは萱葺きでした。本堂正面の賽銭箱や、右手の庫裡の屋根を見ると、「二つ引き両」という寺紋が見られますが、これは足利氏の家紋で、この寺が足利氏の菩提寺であったことが判ります。建長寺、円覚寺、浄智寺は北条氏の創建ですので「三つ鱗」、寿福寺は源頼家が開基なので「笹竜胆」を寺紋としていたのに対して、浄妙寺の特徴となっています。

浄妙寺本堂

 浄妙寺の仏像

木造釈迦如来坐像 
 像高65cm。
 浄妙寺の本尊で創建と同じ13世紀前半に運慶や快慶と同じ慶派の仏師が作ったと思われます。
 造立年代は南北朝期とする説もあります。
 釈迦如来の最もオーソドックスな姿で、右手を施無畏せむい印、左手を与願印を結び、左足外の結跏けっか趺坐ふざの坐像です。
 鎌倉市文化財に指定されています。

阿弥陀如来立像 
 親指と人差し指で輪を作り、右手を挙げ、左手を下げている姿は、極楽浄土で人びとを迎える阿弥陀様の姿です。坐像ではなく立像の場合はこのような来迎らいごう印をとることが多いようです。鎌倉時代の繊細な表現の見られる美しい仏像です。
 県重要文化財。現在は鎌倉国宝館で保管、展示されています。

 ご本堂には他に仏様に聖観音菩薩立像(室町時代)が居られます。
 また仏壇の右隣には、淡島明神立像が祀られています。こちらは薬草と薬壺をもち、婦人病、安産などの守り神として、江戸時代に婦人方の盛んな信仰をあつめていました。仏教寺院の中でも神像が侵攻の対象になっている例です。
 本堂とは別に収蔵庫があり、そちらには退耕行勇坐像の他に三宝荒神立像、伽藍神倚像、藤原鎌足像などが収蔵されているそうです。
 本堂のご本尊や淡島明神立像は通常は公開されていません。拝観には別に事前の申込みが必要です。

足利貞氏の宝篋印塔

足利貞氏墓塔

 本堂の裏手の墓地の中腹に、足利貞氏の墓とされている宝篋ほうきょう印塔いんとうがあります。
 足利貞氏は鎌倉時代最末期の元徳3(1331)年になくなっていますが、この塔は裏面に明徳3(1392)年(南北朝合一の年)の銘があるので、だいぶ時間が経っており、厳密には墓ではなく供養塔と考えられます。
 この宝篋印塔は、正面に宝生如来像を浮彫にし、他の面に阿閦あしゅく・不空成就・弥陀をあらわす梵字を刻み、金剛界四仏を描いたたいへん豪華な石塔です。また年代が明確なので、中世の石造物の宝篋印塔としてたいへん貴重なものです。
※宝篋印塔
五輪塔、多宝塔、宝塔などとともに中世の墓塔の一つ。宝篋印陀羅尼経というお経を収めたことからその名がある。鎌倉にはこの他、若宮大路の畠山重保塔、安養院の尊観上人供養塔、深沢の泣塔などが大型のものとして残っている。

衣張山の眺め

花園下から衣張山を眺める

 墓地の裏手を抜けて登っていくと、小さな植物園になっており、季節の花が迎えてくれます。おそらくここも塔頭の一つが建っていたのでしょうか。
 またここから谷の向こうを眺めると、こんもりとした峰がみえます。これは衣張山といって、源頼朝や政子が、夏に涼しさを求めてこの山の木々に白い布を掛けて眺めたので、その名があります。とすると、頼朝や政子が眺めたのもこのあたりだったのでしょう。

足利直義などの墓

 浄妙寺の北側の現在は墓地になっているあたりは、かつて足利貞氏室の契忍禅尼が建てた円福寺があり、その西側一帯、現在石窯ガーデンテラスがある辺りには足利尊氏の弟の足利直義ただよしが建てた大休寺がありました。いずれも廃寺となりました。
 大休寺跡である石窯ガーデンテラスの脇に上がっていくと大きなやくらが三つあり、小さな石塔がたってます。その最も左手のあるのが、足利直義の墓です。

 ※足利直義 次の浄妙寺ヒストリーを参照。

足利直義墓

石窯ガーデンテラス

 浄妙寺の左手に、今は境内ですが、かつては大休寺があったところに、場違いのように洋館が現れます。これは大正11年に貴族院議員だった犬塚勝太郎という人が建てたものです。現在は所有者も変わり、平成12(2000)年にレストラン石窯いしがまガーデンテラスとして営業を始めました。
 現在は、石窯パンとフレンチで人気スポットの一つになっていますが、実はこの建物そのものが鎌倉に残る関東大震災前の洋風建築としてたいへん貴重なものです。
 歴史散歩としては足利直義の建てた大休寺の跡として訪ねたいところですが、当の直義もビックリするような変貌ぶりです。今はすっかり洋風の建物と庭園になっていますが、ここでフレンチをいただくなら、足利氏一門の盛衰に思いを馳せるのがよいのではないでしょうか(そんなことを考える人はいないでしょうが)。

浄妙寺 石窯ガーデンテラス

2018/7/18

茶堂・喜泉庵

 本堂左手すぐ、樹木に囲まれたところにある喜泉庵は、かつて僧たちが会して茶を楽しんだところでしたが、近年、建物と石庭が復元され、石庭を眺めながら茶をいただくことができます。浄妙寺を一巡りした後に一休みするには最適です。庭も美しく、また邸内には江戸時代に住職が用いていたという駕籠なども展示されていて興味深いところです。ぜひ一度お尋ね下さい。

浄妙寺 喜泉庵

鎌足稲荷

 浄妙寺の裏山を稲荷いなり山といい、その中腹に鎌足稲荷があります。この小さな社は「鎌埋稲荷」ともいわれ、藤原鎌足が常陸国の鹿島神宮へ参詣する途中、この地に宿泊したとき稲荷神の夢のお告げを受け、所持した鎌を埋めたところ、世の中がよく治まったので、鎌を埋めた所から「鎌倉」という地名が起こったという伝承があります。
 645年の大化の改新で活躍し、後の藤原氏の基礎を築いたのが藤原鎌足ですが、この人物が鎌倉に来たという記録はありません。鎌倉と鎌足をかけたやゝ強引な話ですが、昔の人が考えたことでしょう。なお、別な伝承では、鎌足が鎌を埋めたのは鶴岡八幡宮の裏山の大臣山であるとされています。

熊野神社

 石窯ガーデンテラス前の坂道を下り、右手に入って暫く山に向かって進むと、熊野神社の鳥居が見えてきます。この浄妙寺の西北にある神社は、現在の浄明寺地区が村だった頃の鎮守で、浄妙寺が管理しています。後の山は、二階堂地区との境になっており、かつては稲葉越という通路があったようで崇が、今は通れません。

浄妙寺ヒストリー

足利氏の菩提寺

二つ引両

 鎌倉時代の創建以来、足利氏の菩提寺として関係が深く、今も総門や屋根に足利氏の家紋「二つ引両」が見られます。創建は1188(文治4)年、源頼朝の御家人足利義兼退耕行勇※を開山に迎えて行われたとされていますが、最初は極楽寺(現在の極楽寺ではない)と称する密教系の寺院でした。
 建長寺開山の蘭溪道隆の弟子の月峯げっぽう了然りょうぜんが住持となって純粋の禅寺とされ、さらに正嘉年間(1257~59年)に寺号を浄妙寺というようになりました。
 室町時代には23の塔頭を有する大寺院となり、足利義満のときに最終的に定まった五山の制度では鎌倉五山の第5位に列しました。現在は国史跡に指定されています。
※退耕行勇 開山とされる退耕行勇(1163~1241)は一般的にはあまり知られていませんが、鎌倉仏教初期においてはたいへん重要な僧侶でした。はじめ真言密教を学び、鶴岡八幡宮寺供僧ぐそうとなり、わずか25歳で極楽寺(後の浄妙寺)開山に迎えられました。後の正治元(1199)年に栄西が鎌倉に来て臨済禅を伝えると、その門に入り、師の没後寿福寺第二世となりました。さらに北条政子が高野山に建立した金剛三昧院や京都の建仁寺にも入り、広く真言密教と禅を併せて修しました。鎌倉に戻ってからは活躍がめざましく、頼朝が創建した勝長寿院、実朝が創建した大慈寺の別当を務め、さらに北条泰時が母の追善のために建てた大船の常楽寺の開山に迎えられました。『吾妻鏡』には実朝から政治にくちばしを入れたとして叱責されたという話が見られます。

足利貞氏

 足利氏は清和源氏の源義家(八幡太郎)の孫の義康に始まり、その子義兼(?~1199)が頼朝に仕え、北条政子の妹を妻に迎えてたことで北条氏との関係も良好となり、その後も幕府草創期以来の有力御家人、しかも源氏の正統に近い家系と言うことで重きをなしていました。
 足利氏が有力御家人として続いたのは、執権北条氏との通婚を重ねたためです。足利貞氏(1273~1331)は、父の家時(報国寺開基)が弘安7(1284)年に何らかの争いに巻き込まれて切腹した後に家督を継ぎました。中興の祖として浄妙寺殿と言われ、本格的な禅宗の寺院となったのはこの頃と考えられます。
 足利貞氏には長男の高義がいましたが、早世したため、貞氏室の契忍禅尼はその供養の為、浄妙寺の奧に円福寺を創建しました。貞氏は鎌倉幕府滅亡の2年前に亡くなり、浄妙寺に葬られました。本堂裏手に墓(供養塔)があります。
※足利家の棟梁 義康―義兼―義氏―泰氏―頼氏―家時―貞氏―尊氏(以下室町幕府将軍)
 三代の足利義氏は、吉田兼好の『徒然草』第216段に、最明寺入道(執権北条時頼)が鶴岡八幡宮の参詣の帰りに足利左馬入道(義氏)を訪ねた時の話の中に出てきます。義氏はごく質素な献立(打鮑、海老、そばがき)でもてなした後、時頼の求めに応じて「準備しています」といって「足利の染め物」三十巻を取り出し、時頼の面前で小袖に仕立てて侍女たちに着せてみせたという。義氏は北条泰時の娘の夫であり、北条氏との親密な関係をうかがわせる話です。

尊氏と直義

 足利貞氏の次男が髙氏(後に尊氏)、三男が直義ただよしでした。髙氏は北条高時から高の字をもらい、同じ源氏の一族でライバルであった新田義貞とともに、後醍醐天皇らの倒幕の動きから鎌倉幕府を守る重要な役割を与えられていました。しかし、幕府に背き、後醍醐天皇側について名も天皇から戴いた尊氏に改め、幕府を滅亡に追いやったことはご承知の通りです。
 弟の直義は、京都で新政権を建てた尊氏に代わって鎌倉を治めていましたが、東光寺(現在の鎌倉宮)に捕らえられていた後醍醐天皇の皇子護良もりよし親王の殺害を命じたことで評判が悪くなってしまっています。しかし、実は直義は、有能な武将・政治家であり、また禅宗に造詣の深い文化人でもありました。夢窓疎石が禅の教えをわかりやすく説いた『夢中問答』は直義の質問に答えるという体裁で書かれています。
 その後の足利尊氏の新田義貞や後醍醐天皇との戦いで兄を助けて活躍、幕府創建後は裁判などの実務にあたっていました。しかし、尊氏の執事こうの師直もろなおらと対立、1349~1352年の観応かんのう擾乱じょうらんと言う争乱が勃発しました。敗れた直義は出家し鎌倉に逃れて浄妙寺に入り、1352年、円福寺(延福寺とも)で兄尊氏によって毒殺されたと言われています。波乱に富んだ、多彩な活躍をした人物ですが、まだその全貌は知られていないようです。その墓は、今、大休寺の跡の石窯ガーデンテラスの北方のやぐらに静かに残っています。

夢中問答集 (講談社学術文庫 1441)
講談社
天龍寺を開山し、造園の妙を各地に施した、悟達明眼の夢窓国師は、北条家、足利家、後醍醐天皇からも深く帰依され、世に七朝の帝師と仰がれた。在俗の政治家、足利尊氏の弟直義の、信心の基本、大乗の慈悲、坐禅と学問などの問いに答えて、欲心を捨てることの大切さと仏道の要諦を指し示す。無礙自在の禅者の声が、時空を超えて響きわたる。川瀬一馬校注。
観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書 2443)
中央公論新社
亀田俊和著。観応の擾乱は、征夷大将軍・足利尊氏と、幕政を主導していた弟の直義との対立から起きた全国規模の内乱である。本書は、戦乱前夜の動きも踏まえて一三五〇年から五二年にかけての内乱を読み解く。一族、執事をも巻き込んだ争いは、日本の中世に何をもたらしたのか。その全貌を描き出す。
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