杉本寺は、鎌倉で最も古いお寺とされており、江戸時代からは板東三十三観音第一番札所として庶民の信仰を集めた重要な寺院です。鎌倉には少ない天台宗の寺院であり、独特の雰囲気を持っています。また鎌倉時代からの重要な交通路である金沢街道に面しており、鎌倉への東からの入口として砦も築かれたところです。
本堂は誰でも昇殿でき、行基作とされる十一面観音などの貴重な仏様を参拝することが出来ます。
基本情報
- 宗派 天台宗
- 山号 大蔵山
- 開山 行基 734(天平6)年
- 開基 光明皇后
- 本尊 十一面観音
- 板東三十三観音霊場 第一番札所
〒248-0002 神奈川県鎌倉市二階堂903 046-722-3463
公式サイト 杉本寺
ご朱印志納料 500円
境内案内
苔の石段
受付を済まし、上を見ると、両脇に白い幟がならぶ急な石段が見えます。これが杉本観音の苔の石段として有名なところですが、現在は保護のため登ることは出来ず、左隣に迂回路があり仁王門に向かいます。
仁王門
本堂(観音堂、県の重文)と仁王門(仁王像は運慶作と言われるが確かではない)はいずれも江戸初期の貴重な茅葺き屋根の建物で、仁王門は平成26年に葺き替え工事が完了しました。
本堂
三体の十一面観音
ご本堂に昇殿すると、薄暗く煙が立つ堂内に、何体もの仏様が居られます。次の堂内配置図を参考にお参り下さい。ご本尊の三体の十一面観音は奧の内陣の暗闇の中に並んでおり、その前に御前立ちの十一面観音とその他の仏様がいらっしゃいます。
- 行基 寺伝では奈良時代の734(天平6)年に、行基(668~749)が全国行脚の途次、大蔵山から鎌倉の町をながめ、この地こそ観世音菩薩の霊地であると感じて、自ら等身大の十一面観音を彫り上げたといいます。その地に聖武天皇の后の光明皇后が藤原房前と行基に命じて建立したのが杉本寺とされています。行基は諸国を回り各地に溜池や橋をつくりながら布教し、745年に大僧正となり東大寺大仏の造営にあたった天平年間の高僧です。
- 円仁 次に851(仁寿元)年、慈覚大師円仁(794~864)が参籠したときに同じく十一面観音を刻みました。円仁は最澄の弟子となり、師と同じく渡唐して天台宗の密教を学び日本に伝えました。その旅行記が『入唐求法巡礼行記』。854年に天台座主となり延暦寺の堂宇を完成させ、後の山門派の始祖となった高僧です。
- 源信 さらに986(寛和2)年には恵心僧都源信(942~1017)が花山法王の命によりもう一体の十一面観音を刻み、この三体が本尊として並んで安置されています。源信は延暦寺で修行した後、念仏による極楽往生を説く浄土信仰に入り、『往生要集』を著して後の日本仏教に大きな影響を与えた著名な高僧です。
左から、行基作、円仁作、源信作、とされています。この他、御前立ち正面の十一面観音は運慶作で源頼朝が寄進したと伝えられています。ただし、いずれも伝承であり、実際の製造年大は、行基作とされるものは平安時代末、他の二体は鎌倉時代前期のものと考えられています。頼朝寄進と言われる前立観音は室町時代の作です。
左手の十一面観音は、杉本寺の先々代住職がコツコツと造作し昭和38年に完成したものです。いずれにせよ堂内には五体の十一面観音、あわせて五十五面あることになります。これだけの観音様に見守られたら、あらゆる願いは叶えられるかも知れません。
宅間法眼浄宏作の毘沙門天は1427(応永34)年銘があります。宅間法眼は報国寺のある宅間ヶ谷に住んでいた鎌倉仏師です。
杉本観音の奇跡
この観音様たちは、源頼朝の時代までは大倉観音と言われていました。それが杉本観音と言われるようになったのには、1189(文治5)年のある日、この寺が火災に遭ったとき、本尊三体はなんと自ら燃えさかる本堂から抜け出し、境内の大杉の下に火を避け無事であったからでした。それから杉本観音と言われるようになったそうです。
焼けた堂宇は源頼朝が1191(建久2)年に再建、その時本尊三尊は内陣に安置し、別に前立ちとしてもう一体の十一面観音を運慶に造らせ、寄進したと言います。『吾妻鏡』には、頼朝以下の幕府要人がたびたび杉本観音に参拝していることが出ています。
また、昔から杉本観音の前で落馬するものが多く下馬観音といわれていましたが、建長寺の蘭溪道隆(大覚禅師)が行基菩薩作の十一面観音の御目を袈裟で覆ったところ、落馬するものが無くなったので覆面観音とも云うそうです。
杉本寺 歴史の周辺
石塔群は何を語るか
お堂の右手におびただしい数の石塔―ほとんどが五輪塔―が並べられています。これは、この地がたびたび戦場となったこと、とくに南北朝時代には鎌倉の北の防衛戦としてたびたびこの地で闘いがあったことにより、周辺にたくさんの戦死者供養塔が建てられたものを、後にこの地にまとめたものです。
- 城砦だった杉本寺 杉本寺にはもう一つの知られざる側面があります。平安末期に三浦半島一帯に大きな勢力をふるっていた三浦義明は、長男義宗に鎌倉と六浦を結ぶ要地であるこの地を守らせることとし、義宗は杉本寺のある大蔵山に居館を構え、杉本太郎と称しました。杉本義宗の居館跡は正確には分かっていませんが、その後この地は山城としての役割も持ったようです。
現在、ここが城だったとは想像できませんが良く地形を観察すると、杉本寺の本堂あるところなどに平場が作られていることが判ります。発掘調査によると、杉本寺のある大蔵山から浄妙寺の裏手の熊野神社、鎌足稲荷にかけて平場や空堀、連絡用通路などがあったことが確かめられています。 - 激戦を物語る五輪塔群 杉本城が最も烈しい戦場となったのは、鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代の1337(建武4)年、陸奥を拠点としていた南朝方の北畠顕家(親房の長男)が後醍醐天皇に呼応して、10万の大軍を率いて南下し、鎌倉を攻めた時でした。その時足利尊氏は西国にあり、鎌倉には8歳の長子足利義詮以下、1万に満たない軍勢だけでした。朝比奈切通を越えて攻め込んだ北畠軍はこの杉本城にこもる斯波家長率いる足利方の抵抗に遭い、戦いは数日で決着が付き17歳の家長は300人の部下とともに戦死しました。本堂の右横に並んでいる五輪塔は、この時の戦死者を供養するものであると言われています。
巡礼の道
杉本観音は板東三十三観音霊場の第一番札所とされており、江戸からやってきた巡礼がまず参拝するところです。長い間、参拝者が絶えなかったことは、正面の鎌倉石の石段がすり減ってしまい、現在は上り下りできなくなっていることからも判ります。
杉本寺から始まる巡礼道は、滑川に沿って行き、今の華の橋から報国寺の前を通って山道に入り、尾根道を通って衣張山を抜け、第二番札所逗子の岩殿寺に向かいました。現在は鎌倉ハイランドの宅地造成のため、巡礼道は途中で消えています。
杉本寺の左手の道を山沿いに少し進むと、富士山が見えるポイントがあります。藤が見えることもこの地が聖なる土地とされた一つの理由かも知れません。なお、この山道は民家に出入りするためのものなので、すぐに戻るようにしましょう。