あじさいの寺
明月院を訪ねよう
アジサイ寺と知られる明月院。6月には北鎌倉駅から行列がつながると言われます。明月院の魅力はアジサイだけではありません。その数奇な歴史と文化財、そして静かな谷戸にひろがる自然。アジサイにこだわらずぜひ明月院を訪ねましょう。
- 宗派 臨済宗建長寺派
- 山号寺号 福源山明月院
- 明月庵 永暦元(1160)年建立
- 禅興寺 文永5(1268)年中興
- 中興開山 密室守厳
- 中興開基 上杉憲方
- 本尊 聖観世音菩薩坐像
〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内189 0467243437
入山料 500円
本堂後庭園は6月上旬・12月上旬のみの季節限定公開 入園料 500円
公式サイト 明月院
明月院への道
北鎌倉駅の円覚寺側改札を出て、円覚寺前を横須賀線に沿って進み、右手の踏切の手前の小さな橋を渡り、明月院の石標を左に入ります。
鎌倉方面からバスでいくときは、バス停は「明月院」で下車ですが、実はそこは踏切を渡った浄智寺の入口が近いので、間違ってそちらに向かわないようにしましょう。バスを降りたら鎌倉方面に戻って今渡った踏切を戻って渡り、左に向かうい明月院の石標を右に入ります。
明月院に向かう道は、左手に岩を穿った小川が流れ、右手には木々が垂れ下がる、いかにも北鎌倉と言った風情です。春の桜の時期は一段と趣があります。
途中、左手に小さな葉祥明美術館があります。帰りには立ち寄ってみましょう。
最明寺跡のあたり
明月院の入口
左右の門柱には次の文字が読みとれます。
右 山色清浄身 山の緑、紅葉共にわが身と同じ自然の一つ、これと一つになりきることが身を浄めることになる。
左 渓聲廣長舌 谷川の流れの音も、仏法の教えを説く聲として聞こえてくる。
これから入っていく山色の清らかな山で身を清浄にし、谷間の水の流れの音を仏の声として聞きましょう、と禅の修行道場としての場所に入る前に心してほしい、ということです。
北条時頼墓所
受付を終わったら、まず木々の間を左手に進み、明月院に縁の深い北条時頼の墓と位牌堂をお参りしましょう。時頼は鎌倉幕府第五代執権で、回国伝説での「鉢木」の話で有名です。
最明寺の一角だったと思われるところに時頼の廟所(位牌を祀るところ)として宝形造の建物が建てられており、その左手にある石塔がその墓と言われています。石塔は宝篋印塔や五輪塔などの部材を組み合わせたもので、後世に積み直したものと思われます。
右手にある石碑は、北条時頼の漢詩です。明月院のご住持に特にお願いして、碑文を起こしていただいたものを右に示しました。大意は、春の小川が流れ、細草が生い茂り、苔が緑なすこの小さな寺院には、訪れる人もなく、風が吹いて門がひとりでに開く……といったところでしょうか。
わざわざ碑文を墨書していただいたご住職に感謝です。
旧最明寺
北条時頼の墓所のあるあたりは、時頼が造営した最明寺の一部だったと思われます。最明寺は時頼の個人的な修行道場のような性格だったので、時頼の死後に廃絶し、その子の北条時宗が父をしのでその地に興禅寺をつくり、その塔頭の一つであった明月庵が、興禅寺が衰退した後も唯一残って現在の明月院となったのです。
アジサイの季節の前に訪ねても、いつも花々で満たされています。
アジサイの季節
2016年5月29日 13:30
2023年6月1日 9:30~10:50
明月院
山門と方丈
アジサイの石段を登りきると明月院の山門に出ます。そのまま植え込みの間を進むと、正面に庫裡(寺務所、御朱印などの受付)があり、その左手に方丈があります。明月院では方丈が本堂の役割をもち、本尊や北条時頼像などをお祀りしています。
本尊聖観音菩薩像 本堂(方丈)に安置されている本尊、聖観音菩薩像は、延慶2(1309)年の造立銘があり、もと材木座花ヶ谷にあって廃寺になった慈恩寺の本尊を永正17(1520)年に明月院に遷したものです。貴重な鎌倉末期の仏像として鎌倉市文化財に指定されています。
北条時頼塑像 本尊の左手の厨子の中には北条時頼の塑像が安置され、やはり鎌倉時代の肖像彫刻として貴重なものですが、何時も開扉されており拝観することが出来ます。
明月院の丸窓
明月院・本堂(方丈)の丸窓は撮影スポットとして大人気。アジサイのシーズンなどでは、撮影する人の列ができます。右の写真は、2023年6月1日の10:50ごろ。
明日は台風の予報があるためか、朝からこんな感じです。普段はこんなにはならないので、新緑や紅葉の時期の平日ならゆっくり撮影できます。
枯山水の庭園
方丈の前には、禅宗寺院らしい枯山水の石庭が造られています。
開山堂
明月院の開山密室守厳の木像と最明寺・禅興寺・明月院歴代住持の位牌が祀られています。
密室守厳は建長寺開山蘭溪道隆(大覚禅師)の5代目の法孫で、1390年に示寂しました。
このお堂は、禅興寺と言われていた最盛期(1380年代)に建立された宗猷堂を後に開山堂としたものです。
瓶の井
鎌倉十井の一つ。
瓶の井というのは、岩盤を掘り抜いた井戸の中程が膨らんでいることから名づけられ、現在でも庭園にまく水などとして使用されています。
→ 鎌倉十井
最近、瓶の井の隣に新しく小さなお堂がつくられました。こちらは、このあたり山ノ内を拓いた山ノ内首藤家の先祖の墓だそうです。
明月院のやぐら群
明月院の境内で、歴史的・文化的に最も重要なのは、開山堂の脇の崖面に残る「やぐら」群です。
間近に見ることのできる鎌倉のやぐらの中でも最大のもので、間口7m、奥行き6m、高さ3m。壁面には釈迦如来・多宝如来の二仏を中心に、十六羅漢を両脇に配した浮き彫りを施し、中央に中興開基の上杉憲方を供養する宝篋印塔、その前に禅宗様式の香炉を表す石造物を安置しています。
このやぐらは、1160(永暦元)年に平治の乱に敗れ戦死した山内俊道の供養のためにその子経俊が造ったと伝えられますが、その約220年後に上杉憲方が生前に自らの墓塔をやぐらの中に建立したとも言われています。なお、上杉憲方の逆修塔と伝える層塔が極楽寺坂の下った左手の民家の裏手に残されています。
本堂裏の庭園
本堂(方丈)の裏手には、谷戸が広がっており、丸窓から見える庭園になっています。静かな谷戸に、よく手入れされた庭園が広がっています。通常は無料で入園できますが、6月上旬の花菖蒲と、12月上旬の紅葉の時期は、入山料とは別料金500円が必要ですが、それだけの価値はありますので、ぜひご覧下さい。
春
秋の紅葉
2023年12月8日 明月院本堂裏庭園で撮影しました(いずれもスマホです)。
本堂裏庭園のお地蔵さんたち
明月院のところどころ
季節の花
アジサイと紅葉だけではない、明月院の花と木々。特に春の枝垂れ桜は見事です。
明月院ヒストリー
山ノ内の地に
山内氏
明月院は、もとは独立したお寺ではなく、禅興寺というお寺の塔頭の一つでした。寺伝ではさらにさかのぼり、このあたりを領していた山内首藤氏が、平治の乱で戦死した一門の供養のため、永暦元(1160)年に創建した明月庵が始まりと伝えます。しかし、その創建はまだ不明な点も多く、明月院になるまでに複雑な経過をたどっています。
山内氏は藤原氏の流れをくみ首藤氏とも称していました。平安末期に首藤資道の曾孫俊道が開発領主としてこのあたりに荘園を開き、都の有力者に寄進して山内荘となり、自身は荘官として支配していました。資道や俊道は源義家や義朝の家人として仕えましたが、源頼朝が伊豆で挙兵したとき、俊道の子の経俊は源氏が不利とみて、旗揚げに加わりませんでした。
こうして石橋山合戦では頼朝と敵対したため、山内荘は頼朝に召し上げられ、経俊も死罪となるところでしたが、頼朝の乳母の一人が経俊の母でしたので、なんとか命だけは助けられたのです。許されてから頼朝の御家人となり、奥州藤原氏討伐などで活躍し、山ノ内の地も安堵されました。
しかし、山内須藤氏は頼朝の死後の和田合戦(1213年)で和田氏を支援したために北条氏に疎んじられ、山内氏は鎌倉末期には鎌倉を離れ、備後国に移りました。
明月院の寺紋の話
その後、山内氏はさらに各地に分かれ、その中の尾張の山内氏から出たのが山内一豊です。一豊は信長・秀吉・家康に仕え、土佐一国の大名となりました。本人より「一豊の妻」が有名ですね。
戦国時代の山内氏は家紋を二つ使用していました。一の字を重ねためずらしい紋は「山内一文字」とも言われ、同じ一の字を白と黒で表し、「陰にも陽にも敵がいない」という意味を込め、山内一豊が使っていた家紋です。もう一つの「土佐柏」は、同じく山内家の家紋です。土佐出身の岩崎弥太郎はの紋の柏の葉を菱の葉に変えて、三菱のマークを造ったといわれています。
山内一豊の先祖が創建した寺なのでこの二つを寺紋として使っています。明月院散歩の際に、この二つの寺紋がどこで使われているか、探してみて下さい。
鎌倉時代の山ノ内
北条時頼 最明寺を創建
山内氏が鎌倉を去り、この地は執権北条氏の所領となりました。北鎌倉の旧山内荘(現在の横浜市栄区上郷町あたりまで含む広い範囲だった)のあった一部に山ノ内の地名が残っていますが、その地に建長寺・円覚寺・浄智寺・東慶寺など北条氏の創建した寺院が集中しているのはそのためです。
さて、鎌倉幕府が最も安定した時代の執権である北条時頼は、康元元(1256)年に執権職を譲って出家しました。時頼は最も早く、そして熱心に臨済宗の禅宗を学び、蘭溪道隆を宋から招いて建長寺を創建した人物です。若くして執権の座を退き、山ノ内のこの地に最明寺を創建して、坐禅道場として晩年を過ごしたのでした。しかし、まもなく弘長3(1263)年、時頼は最明寺で坐禅を組みながら、37歳の生涯を終えたのです。時頼は最明寺入道と呼ばれました。
最明寺は時頼の私的な坐禅道場という性格だったからか、時頼死後は維持されず、その正確な位置はわかりませんが、現在の明月谷の民家になっているあたりから、時頼の墓所のある辺りまでがそれに当たると思われます。
北条時宗 禅興寺を創建
北条時頼の子の時宗は父を弔うため、1268(文永5)年頃、最明寺の跡地に、自ら開基となり、開山に蘭溪道隆を迎えて禅興寺という寺院を創建しました。禅興寺は同じく臨済宗のお寺で、山号を福源山といい、その山号は明月院に引き継がれています。
禅興寺は、北条氏の保護を受けて次第に隆盛し、七堂伽藍が並ぶ大寺でした。山内氏の明月庵はその塔頭の一つとなったようです。その後、幕府滅亡と共に禅興寺は一時衰えたようですが、南北朝時代の1380(康暦2)年に第二代の鎌倉公方足利氏満が、関東管領上杉憲方に禅興寺を再興させました。禅興寺は将軍足利義満の時には関東十刹※の第一位に置かれ、五山の次に位置付けられました。
※関東十刹は、禅興寺・瑞泉寺・東勝寺・万寿寺・大慶寺・興聖寺・東漸寺・善福寺・法泉寺・長楽寺
室町以後の明月院
上杉憲方と明月院
中興開基とされる上杉憲方は、1379(康暦元)年に父上杉憲顕から家督を継いで関東管領となり、十年以上の長きにわたりその地位にありました。この山内に住み、山内上杉氏の基礎を固めた人物です。1394年に亡くなり明月院に葬られました。その墓は、鎌倉時代に山内氏が造ったやぐらに設けられました。(上杉憲方の逆修塔―生前の供養塔―とされるものが極楽寺駅近くにあります。)
この憲方が、明月庵を明月院とし、塔頭の首位に置きました。このころ禅興寺は最盛期となり、堂宇の揃った大寺院であったようです。
上杉氏というのは、初代重房が、鎌倉幕府第6代将軍となった宗尊親王に従って、1252(建長4)年に鎌倉に下向して以来、幕府の要職を占め、重房の孫の清子が足利貞氏に嫁し尊氏を産んだことから足利氏とも関係を深くして、室町幕府では鎌倉御所(公方)の足利氏を補佐する関東管領を務め、一族は鎌倉の各所に屋敷をもち、それぞれ山内上杉氏・扇谷上杉氏・犬懸上杉氏などにわかれ激しく争うようになりましたが、山内上杉氏がもっとも栄えました。その上杉氏が守護を務めていた越後で、その家臣として現地にいた長尾氏の中から謙信が現れ、下剋上によって実権を奪い、主家の姓を名乗ったのが上杉謙信です。
衰退と復興
明月院だけが
しかし禅興寺そのものは戦国時代・江戸時代の変動の中で次第に衰え、明治初年には廃絶し、塔頭であった明月院だけが残りました。鎌倉の長い歴史の中で、廃寺になったものは少なくありません。源頼朝が創建し、鎌倉時代初期には大寺院だった永福寺や勝長寿院などは、あとかたもなく消滅しました。
関東十刹の筆頭であった禅興寺もまた、衰退から消滅へと向かいました。大寺院の中の一つの塔頭だけが残ると言うこともめずらしくなかったのです。
明月院だけが、禅興寺の中で残ったのは、有力な上杉氏との関係が深かったからに違いありません。関東管領としての上杉氏は戦国時代には没落しましたが、各地の上杉氏一門にとっては先祖のお寺として重んじらて来ましと思われます。
鎌倉時代からの歴史の中で、平安末期の山内須藤氏の寺院創建、北条時頼の最明寺、北条時宗の禅興寺、上杉憲方の明月院、足利義満の関東十刹指定、禅興寺の廃寺などの歴史の節目をへて、近代という新たな荒波にさらされることになったと言えるでしょう。
明月院とアジサイ
禅興寺が廃寺となったため、江戸時代以降は明月院は苦悩の歴史だったようです。明治から昭和にかけても、長い間、谷戸の奥に静かに、そして堂宇は荒れるにまかされていたそうです。
明月院と言えばアジサイがあまりにも有名ですが、そう言われるようになったのは戦後のことです。明月院のご住職が、歴史ある禅寺を生き返らせ、そしてまた戦後の荒廃した世相のなかで生きていく力になりたいと考え、境内に何か花を植えたいと考えました。たまたま植えたアジサイが、この土地に合い、「明月院ブルー」と言われる見事な薄青いアジサイが見事に咲くようになりました。