段葛
今年(2023)4月の段葛
改修前の段葛
段葛は2014年秋から改修が始まり、2016年春に完成しました。それは大正時代に植えられた桜並木が古木化し、花のつきが悪くなってきたためと言われています。そこで桜の古木はすっかり伐採され、新しい桜並木に生まれ変わりました。
上の写真は今年(2023年)の様子ですが、ごらんのように桜の若木も大きく育ち、きれいな花を咲かせるようになっています。でも、昔の段葛の桜並木も風情があってよかった、と言う声もよく聞きます。次に改修前の桜並木の写真を引っ張り出して載せておきました。
2013年桜まつり
前の桜は、染井吉野でしたが、現在の桜は並木用に開発された品種だそうです。
改修前の段葛
改修工事
段葛の歴史
政子の安産祈願
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』養和二(1182)年三月十五日の条に、次のような記事があります。
「鶴岳社頭より由比浦に至るまで、曲横を直して、詣往の道を造る、是日来御素願たりと雖も、自然日を渉る、而るに御台所(政子)御懐孕の御祈に依りて、故に此の儀を始めらるるなり、武衛(頼朝)手自ら之を沙汰せしめ給ふ、仍って北條殿已下各土石を運ばると云々」
この若宮大路造営の記事によって、政子の安産を願って頼朝自ら指示し、御家人たちを動員して造ったことが判ります。
八幡宮からまっすぐ海に向かうこの道は一般には平安京の朱雀大路にならって「若宮大路」といわれています。「若宮」というのは、鶴岡八幡宮が石清水八幡宮を勧請したもので、もとの八幡宮に対してそう言われたからです。
若宮大路は鎌倉のメインストリートであり、八幡宮への参道であり、両側には幕府や御家人の住居が隙間なく建っていました。発掘調査によると、鎌倉時代には道幅が海側60m、八幡宮側33mほどで、道沿いに側溝があり、大路に面した側には門は作られなかったようです。将軍の参詣や放生会などの儀式の時に用いられる神聖な道と考えられ、現在「下馬」と言われているところからは誰でも必ず馬から下りて通らなければなりませんでした。
江戸時代の段葛
道路のまん中の一段高い所は「置石」と言われていました。段葛というようになったのは江戸時代からのようです。
段葛と言えば桜が有名ですが、次の幕末の写真を見ると、何も植えられていません。この写真は1864年頃、外国人写真家ベアトが撮影したものです。
実は1905年(明治38年)に、日露戦争の勝利を祝って桜を植えようというはなしになったそうです。下の右の絵葉書は大正時代の段葛の様子を伝えています。後から着色したものですが、桜の若木が育って花を咲かせています。
それにしても、幕末から大正時代までの鎌倉の様子は、現在とだいぶ違いますね。
若宮大路散策
段葛が真ん中を通っている若宮大路は、北は鶴岡八幡宮から南は由比ヶ浜まで、一直線に伸びる鎌倉のメインの大通り。その両側には新旧取り混ぜて様々な商店が並びます。鎌倉駅から若宮大路に出て左にちょっといけば鶴岡八幡宮の二の鳥居。ここから段葛が始まっていますが、もともと段葛はもっと南まで延びており、下馬のあたりまでだったと云います。横須賀線が横切るために、段葛も削られてしまったのです。八幡宮のお参りを終えたら、鎌倉散歩の第一歩としては、この若宮大路をのんびりと南に下り、鎌倉時代の昔を思いながら、歴史のドラマの舞台となった由比ヶ浜まで歩くのがふさわしいでしょう。
八幡宮から二の鳥居まで
小町通りの雑踏を避けてこちらを歩く人も多いと思いますが、ちょっと脚をとめてほしいところをいくつか紹介しましょう。特に戦前からの建物の残る二つのお店には是非お立ち寄り下さい。
三河屋酒店
1927(昭和2)年10月建築。構造:木像2階建 屋根:桟瓦葺き 設計・施工:金子卯之助(大工)。景観重要建築物等指定第22号 国登録有形文化財(建造物)
- 三河屋酒店 三河国蒲郡出身の竹内平兵衛が横浜の野毛ではじめた三河屋酒店の支店として、婿養子の福蔵が明治33年に鎌倉で開店した。「入山に十一」の商標は、平兵衛が11歳の時に11文を懐に故郷を出たことと、買値の11倍で売るべしという商売の教えから来ているという。正面の扁額は建長寺管長であった菅原時保の書。現在の建物は福蔵が関東大震災で焼失した店舗を、昭和2年に新築したもの。大工が湯浅物産店と同じ金子卯之助であることも面白い。今もご子孫が元気に酒店を営業している。
- 出桁造り 建物は間口5間、奥行き8間の2階建てで、若宮大路に面した店舗部分は戦前の商店建築に多い、切妻平入りの出桁造りである。正面に厚みのある指鴨居、内部の天井に太い重厚な根太天井、帳場・神棚など、商家建築の典型を見ることができる。
- 自前のレール 最大の特徴は店舗北側にトロッコ用レールがあり奧の倉庫への商品の積み込みに現在も使われていることである。戦前の商家建築がそのまま残る貴重な遺構である。
三河屋酒店の全景。左手に「入山に十一」の商標、右手にレールの端が見えている(2024/4/10撮影)
湯浅物産館
1936(昭和11)年11月建築。構造:木像2階建、波形亜鉛鉄板葺き切妻 設計・施工:金子卯之助(大工)。 景観重要建築物等指定第25号
- 湯浅商店 明治30年に湯浅新三郎によって創業され、貝細工の製造卸販売を行っていた。最初の建物は関東大震災で焼失し、大正14年には新店舗を建設、昭和11年に改築したのが現在の店舗で、その後も貝細工や土産物店として営業していた。現在は貝細工販売はしておらず、平成25年にビルに建て替える話が出たが景観重要建物に指定されていたことから、耐震補強だけにとどめ、1階奥が喫茶室、2階が写真スタジオになっている。
- 典型的な「看板建築」 店舗前面(ファサード)は、前面スクラッチタイル張り、2階に円形ファンライトを備えた6連の上げ下げ窓が並ぶという、典型的な「看板建築」。内部には中央が吹き抜けとなっており、天窓から採光し、2階には手すりをめぐらしている。和室から洋室に変更したが、原形をよくとどめている。
カフェ久時
ついこの前まで、貝細工などの鎌倉土産のお店だったが、さすがに時流に合わなくなったようだ。
現在は若い女性向けの宝飾品や、帽子の店が入っている。奥に進み、吹き抜け天井を眺める。その先は「カフェ久時(ひさき)」という喫茶店になっている。
狭いが静かに鎌倉巡りの疲れをいやすには最適です。右はその左手にある坪庭で、店主の余裕を感じさせます。
URL 湯浅物産館 カフェ久時
食べログページ カフェ 久時
二の鳥居から由比ヶ浜まで
鎌倉野菜 「連売」
鎌倉市農協連即売所が名称ですが、鎌倉市民には「連売」として親しまれている。歴史は古く、昭和3年に発足した。昭和の初め、外国人牧師から「ヨーロッパでは農家が自分で生産した野菜などを決めた日に決めた場所で直接消費者に売っている」という話を聞いたのがきっかけだった。
当時、農村は不況に見舞われ、「自立更生するには生産するだけでなく、組織的な直売態勢を作ることが必要」ということで産まれ、当時では全国でも最先端のやり方ではないか、といわれています。(説明版より)
最近は「鎌倉野菜」としてブランド化しましたが、鎌倉市の玉縄地区、あるいは隣接する藤沢や戸塚でも農家が生産しています。このこでは鎌倉内の農協組合員が4班に分かれ、それぞれ4日ごとに出店しているとのこと。隣にはこれも昔の雰囲気のままの鎌倉中央食品市場があり、庶民の胃袋を満たしてくれています。結構人気で、野菜は午前中には売れ切れてしまうそうですよ。どんな野菜や食品があるか、早めに行ってのぞいてみて下さい。
横須賀線と若宮大路
横須賀線は明治22年に、横須賀の海軍基地への兵員、物資の運搬用の軍用鉄道として設置されました。そのとき鎌倉駅も設けられ、そこから線路を延ばすために、若宮大路を横断しました。
現在では高架線になっていますが、当初は踏切でした。高架にするとき道路もかなり掘り下げたので、いまでも大雨の時は水没し、車が通れなくなります。
下馬四つ角
若宮大路を南に向かっていくと、車の量の多い交差点に出ます。ここが現在の下馬四つ角で、渡って左手のガソリンスタンドにその由来を記した石碑があります。
ここから八幡宮までが神社の神域とされ、通行するものはすべて馬から下りなければならなかったので、「下馬」といわれたのです。
琵琶橋
下馬四つ角から若宮大路の左側を進むと小さな橋を渡ります。ウッカリ気づかず通り過ぎてしまいそうですが、これが鎌倉十橋の一つの琵琶橋です。→ タグ 十橋
頼朝が若宮大路を築く前、このあたりは楽器の琵琶のように大きく曲がっていたそうで、その道が佐助の方面から流れてくる川に架けられたのが琵琶橋でした。
このあたりは下馬の外なので、商家が多く、にぎやかだったようで、下馬四つ角のあたりには娼家もあったそうです。この写真は南から北の八幡宮方面を望む。
浜の大鳥居跡
琵琶橋から進み、今度は右側に渡ってしばらく行くと、「浜の大鳥居跡」の小さな石碑と、丸い石版があります。
これは、1990年の発掘によって現れた直径1.6mの大きな柱の跡に造られたもので、丸い石の敷物が柱の太さを示します。これが通りを挟むようになっていたので、かつての鳥居の跡ではないか、と推定されました。
説明版によると、この鳥居は室町時代の1553年に、小田原の北條氏康が建造したものではないか、とされています。現在はさらに南に一の鳥居が立っています。
一の鳥居
そのまま進んでいくと、やゝ登りになり、そこに石の鳥居が立っています。これが現在、一の鳥居と言われており、見たとおり石造です。
これも関東大震災で倒れましたが、部分的に石材を補い、再建されました。いまも4代将軍徳川家綱が寛文8年(1668)に寄進した旨の文字を読むことができます。
二の鳥居や三の鳥居が関東大震災後にコンクリートで作り直されたのに対し、一の鳥居は江戸時代のまま再建されたので、国の重要文化財に指定されています。
畠山重保塔
一の鳥居のすぐ右側、こんもりとしたタブノキの下に大きな石塔があります。こ
この塔は、「畠山重保塔」といわれており、頼朝の時代の有力御家人の一人、畠山重忠の息子の六郎重保の供養塔と伝えられています。地元では六郎様といわれています。
畠山重忠は、幕府創設時に重要な働きをした武士でしたが、北条氏などと対立し、謀反の疑いをかけられて敗れ、戦死しました。その息子の重保も父に先立って討たれています。
なぜここに重保の供養塔があるのか、よく判っていないのですが、此の背後のあたりに室町時代に畠山氏の屋敷があったとも言われています。
- 宝篋印塔 この石塔は「宝篋印塔」という形式で、五輪塔などと並んで鎌倉時代・室町時代にみられる墓塔、あるいは供養塔です。
- この宝篋印塔には、室町時代の明徳4年(1393)の年号が彫られており、重保の死んだ時期とはかなり離れていますから、墓と云うより供養のための塔であろうと考えられますが、建造年代が判っており、しかもかなり大型(高さ3.4m)なので、文化財として貴重です。
戦場の跡
さらに進み、海が見えてくるあたり一帯は由比ヶ浜と云います。今では考えられませんが、実はこのあたりは幕府成立前の三浦氏と畠山氏の戦い、さらに和田義盛の乱、そして幕府滅亡のときの戦乱など、数限りない戦いが繰り広げられた場所です。
何度かの発掘や住宅建築現場などから、今でも刀傷や矢の傷のある頭蓋骨がみつかります。このあたりから出土した戦死者の霊を慰める慰霊碑が、鎌倉簡易裁判所の建物の裏手に建てられています。